煙草と映画(一)「ユンヒへ」(韓国映画)
映画に煙草がでてくると安心する。まだ映画に煙草をだす余地があるのかと思う。それでいて、煙草の使い方が上手い映画は大好物である。不健康、迷惑、反社会性。それらを孕んでいるからこそ、煙草の表現はより深くなる。
「ユンヒへ」(韓国映画)
主人公のユンヒは1人でよく煙草を吸っている。やはり1人で煙草を吸う姿には、孤独や孤高な感じを受ける。さらにいえば、寂しくて物思いに耽っているけれど、何を思っているのか。そこまで観客に思考させる。
そういえば劇中、ユンヒの元夫は禁煙していた。彼は元嫁のことを心配しながらも自分の道を歩き出していて、新しい関係はうまくいっていると類推される。煙草を吸う必要がない=1人になる必要がない=ある程度今の自分に満足をしているということか。ところが、この男は飴をガリガリ噛みながら煙草を我慢しているようにも見える。近い将来に1人になりたい夜がくるかもしれない。
それから、ユンヒの娘セボムの煙草は言わずもがな、大人への憧憬だろう。ここで大事なことは、ユンヒは娘の喫煙を一度は咎めるものの、喫煙を許してしまう。ここには娘の成長を認める、大人としてのセボムとの関りが始まったことの示唆がある。このシーンののち、あるシーンではセボムのほうが大人でユンヒのほうが子供のようなシーンがある。大人と子供の逆転のようなところにほのぼのしてしまうけれど、その大人としてのセボムを受け入れた煙草という表現に感動してしまう。
最後に、作品を通してのユンヒの煙草は、常に何かを考えている、物思いに耽っている様子を描いている。ユンヒは何を思って紫煙をくゆらせているのか、それを考えるのがこの映画の最もコアな部分かもしれない。煙草を吸う行為が1人で物思いに耽り孤独を感じている象徴にも関わらず、ここまで見事に煙草を吸うという行為だけで他者とのつながりを暗示できるというのは本当に見事の一言に尽きる。
振り返るとこの映画のキャラクターはほとんど喫煙していた。でも、そこには多種多彩な心情と想像。一人一人のキャラクターの煙草の意味合いが違う。「ユンヒへ」は極上の煙草映画なのでありました。
あとは何より、煙草を吸う女性ってものすごく魅力的に見えます。単純な絵として、色々な経験を積んできた女性たちが煙草を吸う姿がものすごくかっこいい。絵で魅せて、観客の想像もそそる。マイノリティーのための映画が、煙草という表現と絶妙に絡み合う映画でした。
(了)