【随筆】雨は雨、雪は雪
いつからだろう
雨を鬱陶しく思うようになったのは
いつからだろう
雪にはしゃがなくなったのは
――
幼少期からインドアだった自分は、どちらかと言えば雨の好きな子供だった。いや、今だって別段嫌いなわけではない。雨だれの音は外界の騒音を掻き消し、自分の思索の世界へと沈潜させてくれる。雨には雨の良さがある。雪にしてもそうだ。子供の頃なら雪が降ればはしゃいで雪だるまを作ったり、そりすべりをして楽しんだものだった。雪には雪の楽しみ方がある。
ただ、大人になってからは朝雨や雪が降っているとため息をつくことが増えた。なぜか――そう、悪路の中を出かけて行かなければいかないからだ。大人になるにつれ、学校や会社、プライベートでも友人との用事などで、雨や雪は障害となることが増える。雨や雪にため息をつくのは、いつしか自分がそんな大人に――社会に縛られるつまらない大人になったものだと思い知らされるからでもある。そう思う人は自分以外にも多いのではないか。
ただ、タイの農村に暮らしていると、彼らは僕らほど「用事」に囚われていないように見える。「明日はどうするんですか」調査の当初、僕はしばしばホストファミリーにこんな質問を投げかけ、情報を得ようと試みた。そんな時は決まって「さあ、明日になったら考えるさ」と言われ情報を得られないことに落胆した。
「晴耕雨読」という言葉がある。晴れの日には田畑を耕し、雨の日には書を読む――そんな悠々自適な暮らしの様を表した言葉だ。別の見方をすれば、天候に大きく左右される農業という営みでは、その日になってみなければ自分の行動も決めることはできないし、出たとこ勝負で生きていくしかない。「さあ、明日になったら考えるさ」――初めこそなんて無計画なんだと思ったその言葉を、今はなんて飄々とした良い生き方なんだろう、とすら思う。
ところで、中国古代思想家の老子は、「上善は水の如し」と説いた。無為自然を是とする彼は、水のようにどのような形にでもなり、己が置かれた状況をそのまま受け入れる柔軟さの大切さを説いたのだ。The Beatlesの「Let it be」もやはり似たような意味に僕には聞こえる。幼い頃は、まだ社会が求める「こうすべき」という規範や要請から、ある程度人は自由でいられるものだ。だからこそ雨や雪を楽しむ余裕がある。しかし、いつからか社会の求める都合を内面化して、自ら「こうしなきゃ」と思うことが増えてがんじがらめになっていく。まるで心が凍てついて水が氷となりその柔軟さを失うかのように、「let it be」より「it should be」と思うことが増えていく…。
しかし、僕は思う――自分の内心まで凍らせることはない――と。確かに大人になれば求められることを全く無視して生きていくことはできないし、やらなければいけないことだらけだ。だからと言って、何もそれが自分自身の欲求かのように錯覚する必要はない。本質的にやらなきゃいけないからやる、のではなく、あくまで求められているからやる、とどこかで自分から切り離して捉えるようにしている。無責任になろう、と言うのではない。ただ、過剰に責任を自分自身のものとして引き受けすぎないことが大事だ。だってそれはあくまで他者との関係において生じる責任でしかないのだから。
出かける時、雨や雪が降っていたら面倒なのは僕も変わらない。それを否定する必要もない。でも、雨や雪を嫌いになりたくはない。雨や雪が好きだったあの頃の気持ち、状況に合わせて楽しむ自由な心をいつまでも忘れずに持っていようと思う。