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『文藝春秋』で「保守とリベラル」連載担当します。

今月発売の『文藝春秋』2024年2月号からリニュアールされた読書欄で、ブックガイド「『保守』と『リベラル』のための教科書」を連載することになりました。

…といっても、「保守」担当の浜崎洋介さんとひと月ごとに交替で執筆しますので、私が書くのは来月からです。今月号の連載初回は、浜崎さんによる福田恆存『人間・この劇的なるもの』。

浜崎さんと最初にご一緒したのは、『表現者クライテリオン』2019年3月号での対談(収録は18年末のはず)で、私の『歴史なき時代に』に再録しています。そこでも述べていますが、実は私は福田恆存という人がずっと苦手でした。

福田恆存(1912-94)
リベラル派がアリバイ作りのように
「保守にも立派な学者はいて…」とだけ
言及するのも苦手な理由かも。
写真は新潮社より

病気の前から、浜崎さんが2011年に出していた『福田恆存 思想の〈かたち〉』は読んでいたのですが、率直に難しくてよくわからなかった(苦笑)。一方で、うつの体験をした後に浜崎さんの解説を読むと、意外にすーっと入って来るものがあったんですね。

 しかし、病気を通じて「言語と身体」の問題を実感した後に、〔浜崎さんの〕近著の『反戦後論』に収められた「福田恆存とシェイクスピア、その紐帯」に接して、少し分かる気がしたんですね。
 福田の本領である演劇は、その性格上、まさに言語と身体とが両輪として噛みあって初めて機能する。そのモデルとしてのシェイクスピア劇を知り抜いていたところに、福田恆存しか持ち得ない思想家としての強さがあった。ここまで論じてきた平成の諸論客のように、言語か身体かの「どちらか」に偏って振り切れてしまわないのだと。

『歴史なき時代に』348頁

福田はシェイクスピア全集の翻訳で知られたほか、自ら戯曲を書き劇団を主宰する演出家でもありました。そして、舞台の外でも「われわれは常に『演じながら』生きている。ただしその演技が『演じていない』ように見えたときにだけ、われわれは世界を自然なものとして受け入れられる」……というのが、政治評論も貫く福田の哲学だったのだろうと、連載初回の浜崎さんの筆致からなんとなく思っています。

演劇をモデルにして政治や秩序を捉えた「保守」(と呼ばれることもある)思想家としては、たとえば『人間の条件』のアーレントもいますね。浜崎さんとは文春ウェビナーでも時折ご一緒していますので、そのあたりも今後掘り下げていければと思っています。

毎月の連載にご期待くだされば幸いです!

P.S.
浜崎さんもご自身のブログで連載開始を告知されています。

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