日本人はなぜ、ここまで他人に共感できなくなったのか
先週発売の『表現者クライテリオン』9月号でも、連載「在野の「知」を歩く」を掲載していただいています。綿野恵太さんに次ぐ2人目のゲストは、コンサルタントの勅使川原真衣さん。
勅使川原さんとの対談は、Foresight に掲載のものに続いて2回目になります! 従来もこのnote にて、記事を出してきました(こちらとこちら)。
掲載誌で改めて読み直したのですが、今回新たに提起した色んな論点のうち、いちばん大事なのはやはりここですかね。
色んなところで書いてきたんですが、平成末に始まり令和に入って奔流のように噴き出したのが「ケアをケチろう主義」なんですよね。人間どうしで配慮するなんてダルい、だからもうAI に全部決めてもらおう、どうせ遺伝と脳で人生決まってるんだから別に冷たいことじゃない、うおおおお要らない老人は集団切腹で解決! とかね。
まぁひとことで言えば、バカだし、そんなバカを守るために大学の自治とか言ってた「在官」の同業者は、バカの上塗りですな(笑)。そこまでして、こ〜んな世の中を作る「権利」を守りたいですかねェ……。
しかし、文字どおりにあらゆる人をケアしていたら、私たちがおかしくなってしまうのも事実なんですよね。ウクライナやガザだけじゃなく、世界には悲惨な状態でケアを必要としてる人が山のようにいて、その全員にひとりずつ心を向けて「あぁ、あの人を助けてあげない私は人でなしだ」と落ち込んでいたら、メンタルが壊れてしまう。
なので、よかれ悪しかれ人間の生態ないし文明には、「これくらいの範囲をケアしておけば、その外はまぁ、別にいいですよ」と感じさせるしかけが、いろいろ備わっている。
家族っていうのは、ひとつの典型ですね。自分の子供しかケアしないなんて、恥ずかしくないのか! 誕生日のプレゼントはやめて全額ガザに募金しろ!……とまで言う人は、さすがにいない。
ネーション(ナショナリズム)はその擬似的な拡張形態で、とりあえずは同じ国の「同胞」をケアしましょう。だからって他の国を無視はしないけど、それは順番として二番手でしょう、とするコンセンサスを作ってきた。
ところが、日本ってまだわりと豊かだから「家族なし」でもそこそこどうにかなるし、愛国主義を鼓吹して「敵軍から祖国を守れ!」みたいな事態もいまのところ避けることができているので、それらの装置が存在感を失っているんですよね。
結果として、ケアする範囲を絞る装置として能力主義だけが突出し、しかもその能力はどうやって測るのかといえば「YouTube再生何回」「フォロワー総数何人」「いいね率何%」……といった量的指標に還元されちゃったんですな。すべてが数値で示される、『過剰可視化社会』のなかで。
「バズった人だけがケアされる」なんて、まさに悪い意味での大衆社会の究極系ですけど、そうした状態をどう脱して、ひとりが全員をケアできないのはしかたない、しかしケアを「一切得られない」人もまたいない、という穏当な地点に持っていくのか。
はっきり言えば、それだけがいま考えるべき問題なんですよね。コロナだ! ウクライナだ! 宗教2世だ! ガザだ!……云々は、その瞬間だけ盛り上がる「ケアジャック」みたいなもので。現に1〜2年も経てば、最初は声高に騒いだ媒体ほど、さっさと次の話題に乗り換えてるじゃない(苦笑)。
そうした「本当の問い」を、考える糸口になる対談になっていればと思っています。多くの方にお目通し賜れますなら幸甚です!
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