「発達障害バブル」はなにを残したのか
2月16日に発売された『表現者クライテリオン』の3月号に、浜崎洋介さんによる私のインタビューの後編が掲載されました。前編の記事内容についてはこのnote でも、魯迅や太宰治を論じつつ補足してきたとおりです。
後編の内容も多岐にわたりますが、通底するモチーフは、今日の日本ほど徹底的に「断片化」されてしまった社会は他にないということ。その中で私たちは、人間であれば「ふつう」こう振る舞うといった基準を見失い、それが相互の不信と不安を加速させているという危機感でしょう。
その象徴として、2015年頃から「バブル」と呼ばれるほどあらゆるメディアを席巻した話題に、AI(人工知能)と発達障害がありました。一見無関係に見えて、両者のブームはどちらも、「ふつうの人間」という概念を無効にしたいとする欲求に支えられていた点で共通します。
2020年に斎藤環氏との共著『心を病んだらいけないの?』で詳しく論じましたが、最初は世界共通の流行だった点も同じ。しかし、海外では収束した後も日本のメディアでバブルが続くのは、それほどこの国では「ふつう」に対する不信感が増していることの表われではないでしょうか。
結果としていまや、大新聞が発達障害はそもそも「障害ではない」とする特集を組む一方、大手出版社は逆に(私には不適切な覗き見趣味に思われる)「発達障害アンダーグラウンド」なる連載を始めるなど、異常なほどのイメージの二極化が進んでしまっています。
最初は当事者にとって、間違いなくポジティブな効果を持っていたはずの発達障害への注目は、メディア上での安易なバブル化を経て、逆に従来どおりの偏見交じりの視線に回帰してしまってはいないでしょうか。
混乱に拍車をかけているのは、発達障害が「後出し」的な形で機能する事案です。炎上を起こした著名人等が、その後になって「私は発達障害です」と発言し、当否をめぐってさらに論争を呼ぶといった現象ですね。
管見の範囲では、2022-23年に絞っても以下のような例があります(いずれも強調は引用者)。
① 英文学者の北村紗衣氏
② 元タレントの木下優樹菜氏
③ 元プロゲーマーのたぬかな氏
上記のうち、きちんとした医療機関の診断に基づくと思われるのは①の北村氏のみです。②の木下氏は後に、文中にある「ブレーンクリニック」の非科学的な治療方針が報じられて物議をかもし、③のたぬかな氏になると、最初からネタとしての発言ではと考えざるを得ません。
発達障害がカジュアルに口にされるようになった原因は、「純粋に認知機能のみに関わる疾患」という採り上げ方で報道されたことでしょう。うつ病のような身体症状や、統合失調症で見られる幻覚・幻聴は伴わない(ものとして報じられた)。
結果として「周りと違って『空気を読まない』発達障害は、実はギフテッド(恵まれた才能)」といった演出も流行しました。だから、特にメディアで話題となり広く知られた後には、相対的にカミングアウトしやすい。
しかし人間は一人では生きていけないので、認知のしかたが「ふつう」とズレていることは、連鎖的に大きな困難を引き起こすことがあります。
判決前に『朝日新聞』の取材で述べたとおり、京アニ事件の被告も、自身の着想と重なる表現をすべて「盗作された」と思い込む認知のずれ(裁判資料によれば、家族は発達障害を懸念し、後に統合失調症の診断を受けていた)を、周囲とすり合わせられない社会的な孤立が犯行の背景となりました。
とはいえ今からもう一度、かつて「ふつう」とされた基準に同調圧力で全員を合わせよう、などという発想はあり得ません。
せっかくの発達障害理解の定着を無にすることはできないし、好ましくもない。それなら私たちは、この「ふつう」が壊れきってしまった社会を、どう手当てしてゆくべきなのか?
日本のメディアが発達障害を頻繁に採り上げ出すのは2015年で、今年はそこから10年めになります。そろそろ目新しさのみに依存しない、内実を伴う振り返りがあってよい頃でしょう。
根源的ゆえにあまり問われていない問いを、「保守とリベラル」の間でしっかり議論する対談になっていればと思います。多くの方にお目通しいただければ幸いです。