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太宰治の「リベラリズム」

一昨日の記事の続き。来月に出る『ひらく』10号で、同誌はいったん休刊するのですが、ヘッダーの写真のとおりそこに人生で初めて、太宰治について書いています。

昔、ぼく自身がやっていた日本近代史という分野が歴史学にはあって、そこで仕事をしているかぎり太宰治を論じるってこと自体が起きないんですが、よく考えると奇妙な話ですよね。本質的なところで日本にも近代にも興味はないって、自分で言ってるに等しい研究分野が「日本近代史」を名乗るんですから。いやはや、遠まわりをしたものです。

その太宰は戦時下に執筆した『惜別』(刊行は1945年9月)で、いま風に言うと東北大学医学部に留学中(当時は仙台医専)の魯迅の青春を描いています。で、それに戦後日本の代表的な中国文学者になる竹内好が一枚噛んでるのが面白い。

竹内好(1910-1977)
Wikipediaより

太宰のあとがきによると、面識はないものの互いにファンだった竹内は、処女作の『魯迅』(1944年)を太宰に献本していました。ところが『惜別』の内容は竹内を大いに失望させ、また太宰も1948年に自殺するため、両名の交流は途絶えたまま終わったようです。

竹内自身は『惜別』を気に入らなかった理由として、戦争協力として書かれた点を挙げているようですが、本人だって「大東亜戦争」が始まった際には熱烈に支持したのだから、そこは他人のことを言えた義理ではないでしょう。

むしろ、『惜別』を通じて端正に描かれる魯迅=「周さん」(魯迅の本名は周樹人)のキャラクターが突然崩れ、太宰その人と入れ替わってしまう以下のような箇所が、竹内にはカチンと来たのではないでしょうか。

中国革命同盟会が成立し、留学生の大半はこの同盟会の党員で、あの人たちの話を聞くと、支那の革命がいまにも達成せられそうな様子なのですが、しかし、僕はどうしてこうなのでしょう。
 (中 略)
僕は小さい時から、他の人がみんな熱狂して拍手なんかしている場合、それと一緒に拍手するのが、おもはゆいような気持になるのです。堂々たる演説を聞き、内心はとても感激しているのですが、しかし、他の人が大拍手して浮かれているのを見ると、どうしてもその演説に拍手が出来なくなってしまうのです。

ちくま文庫版全集7巻、293頁

もちろん魯迅の「専門家」は竹内の方で、彼が作り上げた魯迅像を指す「竹内魯迅」という用語まであるのですが、しかし『惜別』が描いた「太宰魯迅」の方は、ほんとうに一蹴されてよいものだったのか。

孫文の支持者だった魯迅は、蒋介石が反共クーデターを起こして以降は国民党に批判的となり、戦後の台湾では長らくその著作は弾圧の対象でした(魯迅自身は、1936年没)。先日対談した家永真幸さんの著書によると、魯迅が「翻訳」した日本文学の書籍まで、持っていると逮捕されかねなかったというのだから相当なものです。

逆に大陸の共産中国では、魯迅は英雄視され「国民作家」の扱いを受けるのですが、もし本人が存命だったとしたら、竹内好のように毛沢東を礼賛し続けただろうかというと、彼の小説を読むかぎりでは違う気がしますよね。

ある思想なり主張なりが熱狂をともなって、いま自分がいる場所を「一色」に塗り込めようとしたとき、たとえその思想や主張が内容的には一理あるものだったとしても、本能的に一歩退いて距離をとる。

太宰は(魯迅に仮託しつつ)ある種の韜晦として、そうした自分の性癖をいわば「熱狂不感症」の症状のように述べていますが、たとえば社会的な同調圧力に歯止めをかけ、リベラル・デモクラシーからリベラルが外れてしまう(=民主主義が多数の暴政になる)事態を防ぐのは、そうした「本能的な少数派」の存在でしょう。

今日、最も必要とされる思想を汲み出す源泉として、「日本とは」「近代とは」と問いながら書かれたフィクションには無限の価値がある。逆にそうした問いを一度も発さずに集められた「史実」なるものは、近日の同調圧力の下で歴史学者が示した醜態を見れば特に価値はないとわかるので、これからは今まで以上に軽んじられてゆくのだろうなと思います。

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