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【短編小説】歪な正当に愛を捧ぐ

 朝晩に感じる涼しさの割合が少しずつ増えている。ゆるゆると後退していく夏を思うと少し寂しい。
 毎年ベランダに不時着してしまう蝉の数が今年少なかったのは、あまりの暑さに蝉も存分に活動できなかったのかもしれないな、と思うと余計切ない。落ちていたらいたで怖いんだけど。
 夏の盛りと比べれば随分マシになったとはいえ、日が落ちきるまでの蒸し暑さは健在だ。少し歩くだけでじわりと額に滲む汗を軽く拭うと、隣を歩く友人が涼しい顔で「使うか?」とハンカチを差し出してくる。
 長い付き合いではあるが、コイツのこういう対応にオレは未だに戸惑ってしまう。だがそれを気にしたところで大した意味はないと過去に本人が言っていた通りなのだろうし、そんな馬鹿なと問い詰める程のことでもない。
 だから少し変わったヤツという認識で以てありがたくハンカチを拝借し、額ついでに首筋も拭った。
 友人とはたまたま明日の休みが被ったもんだから、今夜はオレの家で飲みつつ、朝まで共通の趣味であるホラー映像マラソンを楽しむ予定だ。心霊スポットは気になるが軽い気持ちで行く気にはなれないし、恐怖体験とやらも自分の安全が確保されているから楽しめるのであって、実体験として味わう権利を与えられたとしても遠慮するの一択だ。
 友人もホラー好きではあるが、そういうスタンスも同じというのがありがたい。
「おまえもまだ観てないって言ってた映画、ちょうど見放題で配信始まったってよ」
 最寄り駅で待ち合わせた後、近所のコンビニで飲み物やら菓子を大量に調達している最中に言われてテンションが上がる。
「お、やった。オレもこないだ面白そうなタイトル見つけたからそれも観ようぜ」
 触りだけ観てコイツも好きそうだと確信した、過去に放送されていた深夜枠のドラマ作品を思い浮かべて言う。気に入ってくれたら嬉しい。
 気の置けない友人と過ごす楽しい週末の始まりに、自然と頬が緩む。目の前の小さな公園を突っ切れば間もなく我が家というところで、青々と茂った植込みの前で不意に視線が引っかかった。
 何だろうと二度見すると、意識が引かれた原因は蝉の抜け殻だ。肉厚な緑の葉に連なる小枝、そこにひっそりとくっついている茶色く乾いた夏の欠片。オレはこの夏初めてお目にかかるそれをよく見ようと、腰を屈めて覗き込んだ。
 目に見える範囲では他に抜け殻は見当たらない。ここに入っていた命は、無事に成虫としての勤めを果たせたのだろうか。最盛期の音量ではないにしろ、今も公園を囲うように植えられた木々から響く音に、この殻の主もいてくれたらいい。
「なんつーか、抜け殻ってひとり取り残されて気の毒じゃね?」
 気の毒もなにも、本体が出て行った後の空っぽにそんな感慨が備わっていないことは分かりきっている。だが、そう思わずにいられない。
 ガキの頃は見つけた抜け殻を集めては、勲章みたいに並べて眺めてたっけ。普段はクッキーか何かの空き缶にしまってあるそれらを、新入りが加わるたびに壊さないよう慎重に取り出しては並べ、その数が増えるごとに自分の功績が増えたようで嬉しかったのだ。
 ただその行為の根底には、今と同じく寂しそうだからという感情が流れていたように思う。ひとりを寂しいと思うのはオレの認識に過ぎず、程度の差こそあれ、今目の前にある抜け殻も仲間がいれば安心できると信じたかった、寄る辺ないオレ自身の感慨でしかない。
「まったく、相変わらずだな。けど、そろそろやめておけ。ソレの中身は空だ。おまえの情をそれ以上詰め込んでやるなよ」
 不意に耳に届いた声は聞き慣れたもののはずなのに、いつもの音より聞く側に緊張を強いた。思わず強張る背中を意識しないように、ゆっくりと上体を起こして向き直る。
「いや、意味わかんないし。詰め込んでるつもりもねぇよ?」
「……してるんだよ。もうずっと長いこと、おまえは空っぽに情を注ぎ続けてる」
 ガキの頃からの幼馴染み。知らないことなんてないと思っていた友人の目が、初めて見る色を宿してオレを見る。
 気が利いて、やさしくて、率先して前に出て行くタイプじゃないが、いざって時は当たり前の顔でオレを助けに来てくれる。昔も今も、最高に大好きで頼りになる奴だ。……縋りたくなるくらいに。
「もうやめろよ。なんか、不安になる」
 正直な気持ちだった。これ以上聞いていたくない。頭の中で鳴り響く警鐘は、どうすれば止まるのか。激しく痛むこめかみを押さえながら、助けを求める思いで友人の目を見返した。
 夕暮れ時、薄い闇に覆われつつある公園はやけに静かだった。ジャージャーと迫る勢いで鳴いていた蝉の声も、遠のくサイレンも、歩行者を抜かしていく自転車のベルも、何も聞こえない。
 焦燥に煽られた忙しない呼吸がひとり分、耳障りに響くのみだ。それが誰のものかなんて、主張を強める息苦しさに考える余地もない。
 これがオレの気配なら、じゃあ、コイツのは?
 幼馴染みのはずなのに。知らないことなんてないはずなのに。のし掛かる混乱を押しやりながら、目の前に立つ男の存在を確かめるように凝視した。膨れ上がる困惑は安堵を得たい一心をすげなく振り払い、容赦なくオレの中身を侵食する。
 家族がどんな人たちだったとか、出会いのきっかけだとか、今どこに住んでいて仕事は何をしているだとか、『かけがえのない親友』に関する情報の輪郭が急速にぼやけて遠ざかっていく。眩暈がした。
「俺は、友達だよ。おまえの。おまえだけの」
 ──おまえは、何だ?
 口を衝いて出かけたそれを、言ったら全てが終わってしまう気がして呑み込んだ。にもかかわらず、それを聞いたかのような返しに、差し出された言葉の意味に、せめぎ合う安堵と不安が胸を塞ぐ息苦しさにただ喘いだ。
「……やめろよもう、言うな」
「言わないでおこうと思ったよ、俺もさ。でもそれでいいのかって、ずっと迷ってたのも本当。だって俺は、俺はさ」
 伸ばされた腕が背中に回り、反射的に抱き返そうとした腕が空を切る。幼馴染みの背をするりと抜けて、オレの腕は自分の胸にしか触れない。
「おまえが俺を、俺にしてくれたんだよ。途中で消えるのだって覚悟してたのに、おまえってば大人になっても変わらねぇんだもん」
 ちょっとばかし優しすぎるんだよな。でももう、大丈夫だから。おまえはもう、大丈夫。
 柔らかな響きがほどけて全身を包み込む。心地よい温かさは、この友人といる時にだけ感じられる安心感と同じものだ。
 ガキの頃から人付き合いが苦手だった。人が嫌いなわけじゃない。うまく輪の中に入る方法がわからず、真似をしてもうまくいかないということを繰り返すうち、気づけば人の輪に近づくことがこわくなっていた。
 空っぽになった蝉の抜け殻を見つけた時、強烈に憧れた。殻を破って這い出た翅を得た体はもう、好きな場所へ飛んでいけるのだから。此処ではない何処かへ、飛んでいけるのだから。
 未体験の自由へおもいを馳せながら、同時に残された空っぽに自分を重ねていた。縮こまった翅がすっかり伸びて空へ飛び去っていく勇姿を、用済みとなり乾いていくだけの自分は身動きも取れずに見送るしかない。
 抜け殻を集めて空き缶に仕舞うたび、仲間が増えていくようで嬉しかった。それは遠目に眺めるばかりだった賑やかな輪が、ここにもあるのだという誇らしさに他ならない。そして、唐突にオレは思い出す。『かけがえのない親友』と出会ったきっかけを。
 閉じた世界に生じた歪んだ誇らしさ。それが彼を連れてきた。理想の友人関係を築きたい一心で対話を重ね、理解を深めていく。彼の輪郭や存在が鮮やかさを増し、確立するためなら何でもしたかった。失いたくなかったし、そんな未来は想定さえしていない。なのに、オレが生み出した存在であるなら尚更どうしてという思いが溢れて止まらない。
「大丈夫なのは、おまえがいたからだろ。オレはおまえがいなくなることなんて一ミリたりとも望んでねぇよッ」
 震える声に、だからだよ、とやさしい響きが被せられる。
「俺のこと大好きだろ?」
「当然だろ!」
「ずっと親友でいたいって思うだろ?」
「それ以外あるかよ!」
「俺も、一緒」
 今夜遊ぶ約束をした時と同じ、嬉しさの滲む口元が言葉を紡ぐ。
「俺はおまえの鏡だから。おまえのこころに在るものが俺の存在のすべてなんだよ。だからさ、おまえにとって俺が魅力的な奴に見えるなら、それはおまえ自身がそうなんだってこと。そこんとこ、忘れんなよ?」
 だからいなくなるのか? こんな突然に? 今度は実在する誰かと、おまえ以外の誰かと、『かけがえのない親友』になれとでも?
「勝手にオレを空へ放って、それでおまえは、空っぽに戻るのか」
「うーん。ま、そうなるのかな」
「嫌だね。おまえの存在が何だろうと今更だろうが。おまえはおまえで、オレが生み出したとか何とか関係あるかよ……っ。現におまえには、もうおまえの意志があんじゃん。違うのか? それも全部オレの都合のいい妄想だって言うのかよ」
 捲し立てると、小さく弾けた苦笑が鼓膜を震わせる。肩口に沈んだそれは見なくてもわかる。眉尻が下がり、曖昧に口を歪めた見るからに困っているという顔だ。オレを窘める時にも見せるそれに、自分の顔をよく見ろと思う。そんな顔、オレにはできない。人を心配して、大事に思って、だからこそ間違っていたら導こうとしてくれる。それは紛れもなく、おまえにだからできる顔だろうが。
「こう見えて俺もさ、言うタイミングとか結構悩んできたワケよ。でも悩ましいことこそ予定通りには進まないのがセオリーなんだよな」
 独り言のように呟くと身体を離し、理知的な瞳がオレを見据える。
「おまえの言う通りだよ。俺の核となる思考や感情はおまえをベースにしたものだけど、俺を別の個として扱ってくれた長い間に、確かに俺自身の思考や感情が生まれたっぽい」
 それでさ、と続けた声音がらしくなく弱気を纏う。
「おまえの幸せを願い続けた身としては、実在しない自分といつまでもそうと気づかず居続けるのは、どう考えても良くないよなぁって思ってたわけ。でも大人になるにつれ良くも悪くも変わっていって、自然と俺とも離れていくだろうって。なのにそれこそ良くも悪くもそうはならなくてさ。素直に嬉しい反面、同じくらい戸惑った」
「あのさ、ちょっと疑問なんだけど」
 無粋と思いつつ質問を挟む。さっきからずっと気になっていたのだ。 
「おまえみたいな存在ってさ、大抵は消えたくないって思うもんなんじゃねぇの? 勝手に生み出しといて、用が済めばさよならとかふざけんな的な展開って思うじゃん?」
「そりゃおまえ、ホラーな展開ならそれがお約束みたいなとこあるけどさ。そうじゃない例もあるってことだよ。ついでに王道から外れるってことは、前例が少ないだけに葛藤も多い」
 なるほど、と納得してしまう。人並みに、周囲と同じようにできないというのはなかなか辛いものがある。乗り越えさえすれば、あれはいい経験だったと振り返る過去になるのかも知れないが、渦中にいる状態ではどれだけ立派な言葉も使い物になりはしない。
 欲しいのは、今にも倒れそうな身体を支えられる杖であって、その先を見越した別のアイテムではないのだ。そして、どんな杖なら支えることができるのか。ひとつひとつを吟味して確かめていく行程は自分にしかできないものだ。誰かにとって便利なものが、自分にもそうとは限らないように。
 身体の有無も存在の出所も関係ない。不平等な世界において、悩みだけは平等に、そこに『在る』というだけでそれぞれが独自の悩ましさを抱えてしまうものらしい。そう思うと、少しだけ肩の力を抜ける気がした。
「おまえがそこまで大丈夫って言うなら、オレの大丈夫さは保証されたようなもんだろ? だったらさ、おまえが消える必要ってある? おまえがいなくても大丈夫なんだとしたら、いたって変わらず大丈夫だろ」
 だっておまえがいなくなること以上に、オレの世界を揺るがすことなんてない。
「あーーもうッ。じゃあ言うけどさ、おまえを俺の虚に閉じ込めちゃってもいいワケ? 今消えないなら、次におまえから離れてやるかって思える時はもう来ないかもよ? おまえの世界を広げて今より良い方向に進んでいくためには、俺はいない方がいいんだよ。でもそんなふうに引き止められたら決意揺らぐし。てかもう既にグラグラだし!」
 取り消すなら今だとしきりに言う友人に、オレははっきりと言ってやる。
「オレの世界が良いものかどうかはオレが決めるし、実は存在してませんでしたとか言われても、オレにとっては紛れもなくそこにいるんだよ、おまえは。そんで二人してこれからも一緒にいたいと思ってるなら、いればいいだろ。用意されたテンプレート以外にも選択肢はいくらでもあって、そのどれを選ぶもオレの自由だって、おまえが言ったんだぞ」
「……それ、すごく昔のことなのに。覚えててくれたんだ……」
「忘れるくらいなら、おまえとっくに消えてたろ」
 まぁな、と泣き笑うように震えた一言が返るのを機に、行こうぜと促した。アパートはもう、目と鼻の先なのだから。
 いつの間にか、周囲には音が戻っていた。すっかり日が落ちて蝉の声もまばらになり、あともう少し月日が過ぎればこの響きも聞こえなくなるだろう。そして入れ替わるように、別の虫たちが活動を始める。
 オレはもう、抜け殻を集めない。集めなくなってから随分経つな、と改めて気づかされる。抜け殻を集めて胸に空いた穴を埋めなくても、それなりに生きていけることを知れたからだ。肩を並べて歩く親友が、それを教えてくれた。
 たとえ穴を埋めていた抜け殻が、別のものに変わっただけなのだとしても。それを自覚し、納得した上でそうしているのと、無自覚なままの状況とでは全然違う。オレは、オレにとっての最善を自分で選んだのだ。
 公園でのやり取りなどなかったかのように、オレたちはこの夜を楽しんだ。気の置けない友人というのは当たり前にあるものじゃない。それを痛いくらい知っている。だからこそ、真実を知ったところで大切なことに変わりはない。
 空っぽに情を注ぎ続けていると言っていた。注いでいる先は、若干眠たそうに欠伸を噛み殺している幼馴染みだ。持て余す孤独が生み出した、オレのためだけに存在する大切な親友。
 それから、こうも言っていた。
 ──おまえを、俺の虚に閉じ込めちゃってもいいわけ?
 オレの孤独の穴埋めは、抜け殻という空っぽに端を発していた。だから、コイツの中も空っぽなんだと気がついた。鏡合わせのように、別の器に孤独を、さみしさを、欲しくてたまらなかった優しさや愛を注ぎ続けた。その度に確固とした存在に成っていく『親友』が、オレの空っぽを潤沢な愛情で埋め返してくれる。
 だが根本的に、オレたちは違うのだ。始まりが空っぽである『親友』は、どれだけのものを注がれようと決して満ちることはない。埋まらない穴にひとり飢え続ける様は、地獄絵図で見た餓鬼のようではないか。
「ん、どしたの眠い? このドラマ続き気になるし、オレもうちょい観てたいんだけど、いい?」
 欠伸してたくせに。突っ込むと、欠伸くらい出るだろ夜中だしと、しれっと言ってのける。いつも通り、変わらない友人としての態度。その中身がカラだなんて微塵も感じさせない様子に、言いようのない感情が滲み出た。じわり、じわり、と染みていくそれが喉元までせり上がって口を開かせる。
「いよいよ空っぽが苦しくなったらさ、オレを閉じ込めてもいいよ」
「……は?」
「おまえがオレの幸せを願うみたいに、こっちも同じなんだよ。だからどうしようもなくなった時は、そうしろ」
 敢えて断定的な言葉を突きつけると、いつも理知的な眼差しがゆらと揺れ、そこに明確な欲が浮かんだのを見逃さない。
 だがそれは一瞬の変化に過ぎず、次の瞬間には見慣れた穏やかさを湛えて友人が言う。
「……ありがとな。でも頼むから、もうそれは言ってくれるな」
 約束して欲しい──。どれだけ隠そうとしても、抗う葛藤がそこに透けていた。その事実にオレは安堵する。
 オレたちは互いを必要とし、どちらかが果てない限り、繋がりを断ち切ることはもうできない。今の一手はそういう類のものだ。
 おまえがいる限り孤独とは無縁に生きていけるという絶対が、たった今、成立した。
「約束する。もう言わないよ」
 ほっとしたように目を細めるのに合わせ、オレは深く頷いてみせた。


 すべての蝉が羽化に成功し、成虫として飛び立てるわけではもちろんない。変態の過程で何らかのアクシデントが生じれば、その未来はほぼ閉ざされたも同然だ。仮に脱皮にこぎつけたとしても、不完全な体が殻を脱ぎさるのは至難の業だ。そういう個体は間もなく死んでいく。縮こまった翅が乾くまでも保たず、無残な形にそぐわない静けさのなかで死んでいく。
 オレの翅、または手足のどれかは変態に失敗した挙げ句、何とか脱ぎ捨てた殻の中に不完全な一部を残してきたのに違いない。時間をかけて体液に濡れた体が乾いても、変態に失敗した歪さだけはどうしようもない。
『かけがえのない親友』という確固とした歪を生み、長きに渡り執着し続けた時点で健やかなる成虫への道などとうに閉ざされていた。
 だが、それでいい。何においても、まずは知るということが大切なのだから。

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