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技術について


遠藤ケイ『熊を殺すと雨が降る/失われゆく山の民俗』(ちくま文庫)を読む。

熊を殺すと雨が降る 失われゆく山の民俗
遠藤 ケイ
ちくま文庫

杣(伐採師)やハツリ師(製材職人)、木地師(椀や杓子を作る)、炭焼き、マタギ(猟師)といった山の職人たちの技と生活を紹介。特にハツリ師の驚異的な技術には感動を通り越して呆然。
しかし今はチェーンソーでの伐採、機械での製材。燃料としての炭はとうに役目を終え、彼らの驚くべき職人芸は寂しい話だがおそらくこのまま滅んでいくしかないのだろう。

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この本を読んでいるときに、たまたま必要があって百均の店で買い物をした。
で、買ったある商品が買った途端に壊れた。100円のものに文句を言うのも馬鹿らしいと思って、当然文句なんかは言わなかった。

しかし今百均ショップで売られている商品にも、昔はそれを開発するための研究と、それを使いやすく磨き上げるための努力というものがあっただろう。そしてその努力の成果に応じた金額を払ってみんなそれを手にする。わざわざ改めて書くのもどうかと思うくらい当たり前のことだったはずだ。
かつてはたとえばスプーン一つ作るにしても、柄の太さ、角度、匙部の形状、丸み、深さ、いかに使いやすいものを作るかに職人達は心血を注いだに違いない。
今は1枚の金属板からいくつのスプーンを打ち抜けるか、1本でも多くのスプーンを打ち抜くことを最優先にスプーンの形を決めるんだろうな。

いきなり山の職人たちの技術と百均の商品を同じ文面上で並べることすらどうかとは思うけれども、しかし、やはり技術というものへの敬意を忘れてはいけないと思うのだ。
古いものを懐かしむだけでは単なるノスタルジーだが、これはそういう話ではない。良いものを作る技術があるのに値段優先でその技術を使ってはモノが作れないなんて、やっぱりどうかしてると思う

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僕は営業写真館で働きはじめて20年になる。

働き始めた当初、スタジオで使われるカメラは大判の4×5(インチ)で、土日の撮影を控えた金曜日の晩は暗室にこもって100枚、200枚とシートフィルムをホルダーに詰める作業に追われた。
使ったことのある人は御存知だろうが、シートフィルムというのはホコリが混入しやすく、フィルム表面に乗ったホコリはそのままの形でフィルム面に露光されて残る。
このホコリの跡を、現像後1枚1枚顕微鏡を見ながら針の先で引っ掻いて傷をつけていく。
ホコリは露光を妨げるわけだから、そのままにしておくとネガ上で白く抜けている(プリントすると黒く出る)。それを針で引っ掻くことによって透過を遮り、グレーに落とすわけだ。
プリントしたあと、そのグレーになったホコリの痕跡を、染料でスポッティングして消す。プリント上に修整するので、プリントの枚数分、スポッティング作業が必要になる。

入社して1年間は、午前は暗室で証明写真のプリント、午後はずっと顕微鏡の前に座って4×5ネガのホコリを針で突く作業に追われ、夜の残業時間に面相筆で染料スポッティング、という日々が続いた。最初は慣れない顕微鏡作業で距離感をなくし、よく階段で転んだりもした。

スタジオで撮った写真はホコリを消してプリントして終わりではない。レタッチという作業がある。
今はフォトショップのスタンプツールや覆い焼き・焼き込みツールで簡単にできる作業を、アナログでやるわけだ。
ライティングのムラを修整し、肌を整え、白目の影を弱めて眼を大きく見せたり、太った人の場合は逆に顎や喉元の影を強調して少しでも細く見えるようにしたり。
フォトショップのようにそれらの作業を一気にできるわけではなく、まず濃度を下げる作業はネガ上に紙ヤスリで尖らせた鉛筆で行い、濃度を上げる作業はプリント上に染料と筆で行う、二段階の作業が必要だった。
ネガ上に施す鉛筆修整の、その鉛筆を研ぐのに30分くらい。微妙な作業なので、完成直前で折ってしまったりして、なかなか研ぎきれない。
ネガへのレタッチは例によって顕微鏡やルーペを使っての仕事だ。これをハイシーズンは1日に何十件もやる。夜遅く、駅のホームで動けなくなったこともある。

僕がこの仕事に入ってから、まず4×5がマミヤRBのブローニーに替わり、そして最近デジタルになった。今まで鉛筆や面相筆で行ってきた作業はマックプロとペンタブレットでの作業になり、二段階に分けていたレタッチ作業が一画面で一気にできるようになった。
しかしネガ修整、プリントレタッチを経験してからフォトショップに移行した人と、初めからフォトショップでレタッチを始めた人では、申し訳ないが技量に雲泥の差が出る。
ネガ上で光を読み、影を読み、顕微鏡ごしに銀塩の粒子と対話するように鉛筆を入れてきた、そういう「技術」は伊達ではない。僕には少なくともレタッチ職人としてのそういう自負がある。

僕よりもっと古くから仕事をしている人は当然、もっと僕の知らないような「ワザ」を知っているだろうし、使ってきただろう。そういう技術的な苦労を語るときの先輩達は本当に楽しそうだ。写真が完全に手仕事であった時代の、職人としての誇りが感じられる。

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カメラの操作やプリント作業が職人芸でなくなり、技術勝負から純然と感覚勝負になってから、写真の世界は変わった。それはそれでいいと思うし、逆に写真技術の狭い枠にとらわれていては面白い写真も撮れないだろう。技術がすべてではない。むしろ技術を全面に出した写真では駄目じゃないかとも思う。
しかし、そんなことを言いながらも、僕が個人で表現活動として撮っている(仕事ではない)写真のバックボーンにも、ちゃんと仕事で学んだ「技術」が拭い難くあるんだなぁと実感することがある。それはいい意味の時もあり、悪い意味である場合もあるんだけれど。

人が一生懸命習得した技術を軽んじてはいけない。その人の持つ技術というものに敬意を払おう。
それは、自分の持っている技術についてもなのだ、と書きながら気がついた。

(シミルボン 2016.10)

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