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【280】「所属先の見解とは関係ありません」だなんて!

インターネット上では様々な立場にある人間が発言をしているわけではわけですが、その中で少し気になるのが、組織に所属しながら活動を行う人々のプロフィールに付け足されがちな「(この場に書いていることは、私個人の見解であって)所属先の見解とは関係ありません」という文言です。

今回はこの表現について、ごく簡単に見てみたいな、と思います。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


「所属先の見解とは関係ありません」と言いたくなる気持ちは分からなくもありませんし、その理由は割と明確だと思います。つまり、自分はここでは個人として発言をしているのであって、何らかの場所に所属した人間として語っているのではない、ということです。所属先が信用できないなら、所属先の問題を私に紐付けるなということになりえます。

あるいは、ここでの発言内容については自分で責任を負うのであって、所属先には問い合わせてくれるな、ということなのでしょう。自分がまずい発言をしても、所属先を糾弾するようなことはあってくれるな、という自分で責任を引き受ける態度の表れだろう、と読むのが適切なようでもあります。


しかし、そもそもそんなことが可能なのでしょうか。つまり、「所属先の見解とは関係ありません」という形で自分の見解を示す振る舞いは、自分と所属先とを切り離して考えてほしい、という意図を込めた言葉になっているわけですが、そんなことはそもそも可能なのでしょうか。

人間は、ぽつねんとなんらのしがらみもなく生きているわけではありません。人は他人を、その人の資格や所属や経歴や交友関係を通して見ることしかできないわけです。

「えこひいきはいけない」とか、「人によって対応を変えてはいけない」とか言っても、そんなことはまったくの建前に過ぎず、実際には自分とどのような関係にあるかによっておおいに区別を行うわけです。たとえば言葉遣いを変えますし、言葉遣いを変えるということは、態度の全てを変えているのです。

これは仕方のないことだ、と認めざるを得ないでしょう。

同じ内容であっても、私が何の背景も持たずに言うのと、西洋思想史をやっております、東大とフランスの大学で修士号をとっています、と前置きをしながら言うのとでは、結果も印象も異なってくるということです。また、例えば私がなんらか学術的な議論をしようと思って記事を公表するなら——まあ、もちろんこんなところには書きませんし、書く意味もありませんが——、人はその文章を読むより先に、私の経歴を確認するわけです。

当然のことながら、経歴がまともであれば、内容についてそこまで著しい疑いを持たずに進むことができるだろう、という安心感を与える(かもしれない)わけですし、ことによると、その結果として見逃されるミスも、かえって目立つミスも、ありうるでしょう。

そうした意味でも、経歴や所属というものは、本人の書くことや、本人の言っている内容の読まれ方に直接的に影響してくるのです。

そして、何の所属も・何の背景もない「その人自身」とか「言説それ自体」というものはありえません。実名を出している時点で、ググってしまえばその人がどういう背景を持つ人であるか、ということはわかってしまうわけで、読み手はその点を手がかりに、当然のことながら先入観を持って、読み進めるわけです。

その意味で、所属先を明示している、あるいは所属先に繋がりうる要素を出している時点で、「所属先の見解とは関係がありません」と言っても嘘になるということですし、「こんなふうに読まれたい」という自分の欲望をだだ漏れにしていることになる、と言っても過言ではないでしょう。

本当に所属先と関係のないものとして自分の言説を表明したいのであれば、あるいは自分の文章を所属先と関連付けられたくないのであれば、その所属に紐づいてしまうような要素は、決して匂わせてはならないはずです。

たとえ匿名で情報を発信しようと思っても、関係が広がってくれば別の人を巻き込まざるをえませんし、究極的な場面においては、社会的に強固な事実としての実名に絡め取られます。実名は法的人格へと、それゆえ身体へと強固に結ばれていますから、如何に自分ひとりで責任を負う決意を示しても、配偶者やその他親族や勤め先に何らかの尾影響が及ぶことは避けられないでしょう。

まして実名で何らかの発信をしているとすれば、その実名が所属先の見解とは関係がない、ということは絶対にありえないわけで、どうしたって自分ひとりですべての責任を負います、というわけにはいきません。


もちろん、例えば自分は自分が所属先においてそこそこ重要な位置を占めている、という場合には、その所属先の見解と、自分の個人の見解を便宜的に切り離しておくということはある程度必要なことかもしれません。組織の意思決定と自分の意思決定とが異なる、ということを強調する必要がある、ということはあります。

しかし、たとえその人が個人で発信をしていても、周りの人は、その人をその組織と関係のない個人として見てくれるわけではありません。つまり、あなた自身が自分一人で自分の言説への責任を持とうと決意するのだとしても、結局あなたはその責任というものを、その組織やその組織や経歴や周囲との人間関係に紐付けられた自分として負わざるをえないのであって、その限りで、法的な範囲ではともかく、実質的には一人で責任を負いきることはできないのです。

誰かが責任を負わなくてはならないのであって、書き手が「所属先の見解とは関係ありません」と言って個人で責任を負おうとするときには、書き手の側のほかの誰かが必ず影響を受けてしまうのです(もちろん負う、ないし得るのは責任ばかりではないかもしれず、良いこともあるかもしれませんが)。

さらに拡張するのであれば、私たちは言語の使用という場面において、自分で言語を作っているわけではない以上は、つまり他の人々や歴史が定めてきた言語環境というものに依存しながら言語を用いているからには、その言語を用いているという時点で、責任をすべて引き受けるということはできないのです。

また別の観点からいえば、私たちは生まれも育ちも選ぶことができないわけで、そうした意味では、生育環境というものにも少なからず責任があるわけです。

もちろん、法的なレベルで、私たちが刑事事件において被告人となって、一定の罰を裁判所から課される場合には、もちろんふつうは私たち個人に責任が限定されます。法的責任の範囲は限定されます。とはいえ、私たちが浸されている所属や組織や経歴といったものの全てが、法的なかたちではないにせよ、責任を負うことになるのです。


もちろん、このような形で述べたことが、負うべき責任を逃れるために乱用されてはならないと思いますし、そんな態度をとるのは単に悪手だと思いますが、少なくとも何か物を言うときには自分一人で責任を負い切ることができない部分がある、ということを少しは意識してみても良いのではないでしょうか。

名前を出しているならなおさらですし、名前を出していないとしても、自分一人で責任を負い切るということは根本的にはできるはずもないことで、そしてそこまで根本的なレヴェルに遡らないとしても、自分一人が法的なレベルで罪を負ったり、あるいは公的な場で謝ったりすればそれでコトが済むのか、ということは気に留めておかなくてはならないよね、ということです。


問題はもはや「所属先の見解とは関係ありません」といった事務的な言葉に限られるものではありません。

例えば親が、子供の写真やプロフィールや日常の言葉や生活の様子を(ときに積極的に)世間一般に公表している、ということがしばしばあります。

が、責任、とれるんですか。

今の時代には、SNSなどで個人が自分の写真を公表するということはさして珍しくありません。ハードルはおおいに下がっています。私も、許可なく自分の画像が(わりと公的な機関によって)晒されているのを見たことがあります。なんにせよ公的に何らかの形で公的に活動することと顔を出すということは切り離せないことが多くなって、ハードルも下がっているというわけです。言葉やプロフィールや生活の様子となればなおさらでしょう。

とはいっても、写真を勝手に公開するなどということは、親が勝手にやって良いことではないでしょう(と私には思われます)。大人同士でやったら問題になってもおかしくないわけで、それを自分の子供についてやるというのは、なかなか理解に苦しむことです。

何も、特定されて犯罪に巻き込まれるとか、就職活動に響くとか、そういったことのみを問題にしているのではありません。個々人の決定に委ねられるべき領域を侵してはいないいか、ということです。

もちろん、子供が子供である間は、親が責任を負うと同時に、子の自由は一定程度の制限を受けるとはいえ、そうした制限がひとえに子のためのものであるということを踏まえるのなら、侵さなくてもよい自由を侵すことに対して、いったいいかなる弁明が可能なのでしょうか。

かかる意味で、私の見も知らぬ人間が、奪わなくてもよい子供の自由を、決定権を奪っている場面を見ると心が痛みます。子供の生活をネタにしたブログを書いている人なども、私がしばしば見ていてひそやかな憤りに胸を焦がすものです。

恐らく発信している側は、極めて無邪気に、ことによると善意から発信をしているのかもしれません。「万一の時には自分で責任を負い切れるからだいじょうぶだ」などと考えることさえない人も多いのでしょう。

しかし、一度出してしまった言葉や、一度出してしまった写真を引っ込めることはほとんど不可能です。特にネットにおいては、そうです。自分の言葉でさえ、自分ひとりで片づけ切れない場面があるのです。あからさまに他人のものであるようなものを発信することについて、いったいどうやって責任をとることができるのでしょうか。


あるいはそんなレヴェルでなくても、例えば大学の教員が発言をしている場面でも、そうです。

大学の教員が「自分の所属先の見解とは関係がありません」と言いながら様々なことを言っている場合にも、世間の人は、あるいは他の教員はどう考えるか、ということを大学の人はあまり認識していないようなのですね。

もちろん、原則から言えば、発言はそれ自体として捉えられるべき、という見解は一定程度正当でしょう。発言は基本的にはその場のものであって、所属先とか資格とかからは切り離して吟味されねばならない、という建前はあります。 

しかし、誰もそんな建前を従順に守っているはずがないのです。

20代そこそこの若手研究者の書いた論文を読むのと、50代の業績もある程度積んでいる学者の書いた論文では、こちらの対応が異なってくるのは当たり前です。

だからこそ、雑誌論文の査読を行うときには、著者が誰か分からないようにするのですね。

匿名の査読システムは、書いた人間の所属先とかパーソナリティーとかを覆い隠すために設けられている仕組みですが、なぜこんな面倒なシステムがあるかといえば、そうしなければ、査読者は所属先とか経歴とか相手の背景とかを考慮の要因に入れてしまい、ときには忖度し、ときには評価を切り下げる材料に使ってしまうからなのですね。つまり査読システムがあるということは、人間は言説の内容をその人間の所属や背景抜きに考えて評価することができないくらいに貧弱な精神しか持っていない、ということを認めているからなのですね。

控えめに言っても極めて多くの学術分野において、軽重の差はあるにせよ、査読制度は存在します。そうした領域に身を置いているということは、人間の弱さを制度上は認めているわけです。

というのに、「自分の所属先の見解とは関係がありません」などと言いながら自分の意見や見解を表明する人がいることには、どうにも頭を抱えざるをえません。そんなふうに切り分けることができるなら、匿名の査読システムなど必要ないのです。

もちろん、建前として「関係がない」と言っておくことにはそれなりの意味がありますし、その意味については先ほども述べたとおりですが、それは建前に過ぎないのであって、実際には所属先と結びつけられて理解される、ということは理解しておかなくてはならないように思われます。

比較的大きな総合大学であれば、教員個人が問題のある発言を行った場合に、もちろん大学全体が大きな害を被るということはないでしょう。しかし、小さい大学ならば経営に問題がでてくるかもしれません。あるいは大学の規模に依らず、その教員の指導学生も、何らか間接的な被害を受けるもしれません。そういう意味で、「自分の所属先の見解とは関係がありません」と言って個人で責任を引き受けようとしても、限界がありうるのでしょう。

自分が何かしらの影響力を持ってしまいうる、自分の発言が思わぬ効果を生みうる、その責任をひとりで引き受けきることはできないかもしれない、ということを念頭に置かねばならない所以です。


あなたが何をどう言おうと、その言葉はあなたの他の様々な要素と結び付けられます。表現の内容それ自体とは関係のない、様々な要素と結びつけられて理解されます。

これは本当はごく当たり前のことですし、原理的に妨げられるべきことでもありません。私たちはそのように読んでしまうのです。であるからには、仕方のないものだと思ってかかるしかないのでしょうし、それか現実的な言語への向き合い方の一つの表れになるのだと思います。

■【まとめ】
・人はぽつねんと何のしがらみもなく生きているものではないからには、人間の言語表現というものは、言語表現それ自体として単独で理解されることはありえない。その人の所属や経歴や人間関係などを通じて読まれるのであって、全く無垢に読まれるということはありえないということである。

・ものを発信する側は、建前として自分の見解と所属先や業種を切り離す所作をとりうるが、そうしたエクスキューズを立てるのだとしても、自分がその所属先、分野等の代表者として読まれる可能性があり、究極的には自分一人で責任を負いきれない可能性がある、ということを常に意識することが肝要である。