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【299】目標ベースか、信念ベースか

目標を立ててそこに向けて邁進する、というのは王道ですが、王道は万人にとっての正解ではないかもしれません。そんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


仮に現状に漠然たる不満があるのであれば、その際に取られる第一選択はおそらく、自らの目標というものを見つめ直す、ないし設定することであると考えられます。

現在の位置から目標までの距離や方向や経路を様々に考慮したうえで、そこに至るための通過地点を一つ一つ吟味する作業を経ることで、「次の一歩」を適切に定めてゆける、ということです。

しばしば書きますが、たとえばトマス・アクィナスの『神学大全』における人間論などは、その冒頭からして人間のあらゆる行為の「終わり」つまり「目的」(finis)を問題にしており、そこに至ろうとするものとしての人間を描いています。目標ないしは目的というものを最初に据えたうえで、そこに至ろうとする人間の意志や、霊魂のありかたや、徳や悪徳や、様々な行為のあり方を逆算して記述しているのです。


トマスのような神学者の場合であればもちろん、人間の究極の目的は神を見ることに存することになるわけですが、おそらくは極めて中途半端な仕方で脱宗教化された世界を生きている私たちにとって、神を見ることは目的として成立しないでしょう。

あるいは宗教的な考えを強く持っている人であっても、それと現世における行為とが全てぴったりと一致するわけではありません。

キリスト教的な意味で神を見ることを目的として現在の生活をオーガナイズする場合ですら、それはそれとしてご飯を食べていかなくてはならないことがほとんどですし、そもそもキリスト教は物欲の類を否定・拒絶するものではないからには、そちらに関する目標の方こそが実践的には重要になってくるという成り行きです。


しかし、目標を定めてそこに至るための手段を様々に構想する、という方針が体に合わないという人もいるでしょうし、あるいは、目標なんてものはそんな気軽には立てられないよ、と思われる方もいらっしゃるでしょう。様々に目標というものを考えてみても、どれもしっくりこないという方も多いはずです。「目標を立てたはいいが忘れ去る(五七五)」という経験をお持ちの方も多いはずです。

もちろん、どこに行きたいかということが(漠然と、であっても)わかっていなければ、真の意味での旅というものは始まりようがありませんし、何でもいいからちまちまと動いてみて、行ってみたい方向や目標を定めるというのは、なかなか確度の高いやり方でしょう。この路線を放棄すること、つまり「目的地など知らん!」という態度をとることは、個人的には推奨しません。

それでも、未達の目標以外の行動の原理を想定する可能性は、常に残されているように思われます。それは、信念ベースで考えと生活を走らせてみるということです。

目的ベースの考え方が逆算思考であるとすれば、信念ベースの考え方は出発点と方法論を定めた思考です。勿論両者は矛盾しません。さしあたって便宜的に区別してみるのもよいということです。


信念ベースの何が良いかと言えば、それは、さしあたり信念というものは既に持たれていて確かな地位を心の中に占めている、という点です。

さしあたって自分が持っている信念は、今のところ実現されていない目的よりも臨場感を持って受け入れやすい可能性がある、ということです。

信念というものは、現実世界において常にそれにかなうかたちで動けるどうかはともかく、また具体的に実現したいところのものとしてあえて遠く離れた目標として定めることもできないわけではないにせよ、外的な目標と異なり、心の中で既に保たれ実現されている一つの尺度・基準ですから、その点、言語化されているとは言っても未だ手元にない目標のようなものよりも、手触りのある・生活に反映させることのたやすいものである可能性があります。

信念というのは、何でも良いでしょう。別に良いか悪いかは私が決めることではありません。「この人を愛し抜く」でもいいわけですし、「誠実でありたい」でも別に良いかもしれませんし、あるいは一部の極めて敬虔な人間であれば、「神のためにすべてを放棄しつづける」ということでもありうるでしょう。実に現代にもいる修道者の理想の形態の一つではあります。

そうして、信念にかなうことだけを実現しようとするとどうなるか、ということを考えることで、逆に極めて外的な「目標」が定まってくる面があるかもしれません。そうなれば、少しずつ、逆算しながら具体的な歩み方を決めていくことがありうるでしょう。

あるいは信念を実現しづつようと思えば、信念を曲げずにいるための手段として、他のすべてのもの——つまり職業や、人間関係や、財産や、その他もろもろ——の布置を構想しうるのではないでしょうか。

こうして、未達の目標を掲げるという発想がしっくりこないのであれば、既に手元にある守り抜きたい信念や基準は何か、と考えてみる・そこから出発してみるのもよいのではないかという話ですし、あるいはそのように信念を守リつづけるということを、今と地続きにある目標として据え、そこから今何をすれば良いのかを考えてみるのも悪くないのではないか、ということです。

目的地は定まらないものの、ある信念を守る・守りつづけるということをさしあたりの出発点として物事を進めてみるとか、信念を精度高く守りつづけることを目標とすりかえてみるとかしても良いのではないかしら、ということです。


一つの信念ないしは意思決定基準を自らの心にあえてはっきりと思い描くのであれば、その信念というものは、よほどのことがない限り、ひどいものにはならないはずです。

これは性善説がすぎるのかもしれませんが、客観的な・遠くに措定しうる職とか金銭とかを目標として固定する場合には、あなた自身が気づかぬうちに内面化している他者の視線が強く影響しますし、照れや衒いや日和や抵抗が入ってきます。自分がどうありたいとか、何をしたいとかを考えてみればわかりますが、良い悪いは別にして、他者からの評価とか、他者との関係とかいった要素が強く強く入ってきます。

信念は、その起源はともかく、そもそも概して個人的で、他方でよくも悪くもrealなものからは乖離したところにあるので、比較的ピュアなものでありうるでしょう。利己的ではあるかもしれないけれども、他者を攻撃したり、法をすすんで無視したりするようなものでもない、健全なものになりやすいのではないでしょうか。

たとえば、結果としての行動においてはともかく、信念のレヴェルで、積極的に他者を陥れ・引きずり下ろしたいと思っている人はわずかでしょう。そこまで他人に積極的な関心を持っている人は多くないでしょう、ということです。言い換えれば、信念はかなり個人的な水準で、無難に成立し、しかも完結しやすいということです。だからこそ今ここでの実践に繋げやすく、あるいはその実践のための環境も想像しやすいというなりゆきです。


遠大な目標というものを掲げてそこに向けて一歩一歩積み上げて行くという思考が、少なくとも今のところは肌に合わないと感じられる人もいらっしゃるはずで、そういった方にとって一つの可能なオルタナティブとして、自分が持っているあるかなきかの信念に基づいて日々の行動を繰り返していく、そうしてゆくどうなるか・どうならねばならないかを構想する、ないしはそうした信念を守るということを目標にすげかえて進んでゆく、ということが考えられるのかもしれません。

■【まとめ】
目標を立てようとしてしっくりこないなら、今持っている信念を実施しつづけるという観点から歩んでみてもよい。信念を実践しつづけるうちに目標が見えてくるかもしれないし、確実に信念を保持するということをひとつの目標とすることもできる。