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【300】理論と実践の対立(と往還)?

タイトルどおり(?)です。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


観想ないしは理論と、実践ないし活動との関係は複雑な問題を構成します。哲学史上は、知的な認識こそが最も価値を持つものであって、観想と活動というものが対になって語られるときには、必ずと言っていいほど観想のほうに重点が置かれます。

とはいえ私たちは、つまり哲学テクストも神学も特に知らずに生きている私たちは、実践を最低限のレベルまで持ち上げなければ生活できません。現実的に言えば、現代社会にあっては人間関係が充実しているとか、一定の社会的地位があるとか、あるいは安定した収入があるとかいった実践的な前提をしっかりと実現してこそ、知的な営みに進むことができるというのも事実でしょう。

そして、この実践をある程度のレベルまで高めるということが実に難しい。だからこそ、知的な営みを行うことは、あるいはきちんと言えば、知識や頭脳を生かして金を稼ぐとかいうことではなくて、知性が或る循環するようなタイプの知的認識を展開していくことは、ややもすると軽視されがちですし、それは当然のなりゆきでしょう。
 
実際、観想と活動を比べて、前者に重きを置いてきた古代や中世の思想家たちは、或る種の政治参加を除けば、労働や製作といった活動を自らを行う必要がない身分にあった者たちで、自分以外の人々に極めて広範な実践を委ねることができたからこそ、観想を勧奨でき、あるいは自ら実践の範囲を最小限に抑えることで観想に勤しむことができたということは言えるかもしれません。

私たちはそうした時代に生きていませんし、広い意味での「実践」を回避できるのは、ごくわずかな人間のみと言ってよいでしょう。だからこそ、純粋に知的な方向へと進みたいのであれ、進みたくないのであれ、実践の基盤を整える必要があるという成り行きです。


こうして「良き実践を行う」ことを(さしあたっての)究極の目標として捉えると、そのためのひとつの手段として、つまり「役に立つ」ものとして、理論や勉強というものが位置づけられることになるといえるでしょう。

こうした限定的な観点からみると、理論と実践とどちらが大切か、という答えに対しては、当然実践の方が大切だ、ということになるわけで、ここで立ち上がってくるのは厳密な対立ではなく、手段でしかない「お勉強」や「理論」というものにどの程度の分を認めてやるか、ということであるようです。

極端なことを言う人であれば、お勉強や理論には一切の価値を認めないことになるかもしれません。つまり、実際の経験・場数を積めばよいのだ、と。これに対しては、留保をつけることしかできません。さしあたりの前提のもとでは、「勉強こそが大切なのだ」とは言えず、「勉強も大切だし役に立つのです」とのみ述べることができます。所詮は劣位にある「理論」や「お勉強」にどの程度の分を認めてやるか、という話になり、その範囲でのみ差異が認められる。——そうしたわけです。


しかし、より解像度を上げて捉えてみるのであれば、というよりも私たちが時間の中を生きているからには、寧ろ理論と実践は二つの截然と区別された領域でもなければ、その関係は分節(articulation)とさえ言えないほどに不分明なものである、ということを捉える必要があるのではないでしょうか。

どういうことかといえば、理論は応用の場面のみならず、起源からして実践に貼り付いており、現在の実践は過去の実践として捉え返されて理論化されなければ未来の実践と結びつかないということです。

一方で、理論というものは空中から、カオスから掴み取られたものではありません。妄言ではない(ことが多い)ということです。理論は、そもそも私たちのものではない、別のところで行われた(過去の)実践を介して生成されている、ということを知る必要があります。

他方で、自らの実践の中で限定的な理論——つまり持論——を組み上げる必要があり、またそうしなければ、自らの実践というものは改善されてゆかない、ということです。

言い換えれば、理論と実践は相補的な関係にあるというよりも、あるひとつの営みに対して継続的にコミットするのであれば、同じことがらのほんのわずかに異なる現れ、ないしは観点と意味づけの差異でしかない、ということです。

つまり、ひとつの経験——他人の事例や論というものに触れるのであれ、自分の活動の中で一つの実践を行うのであれ——には、必ず何かが実践されているという側面と、それが理論化されうる・ないしは理論化されているという側面があるということです。

この二つの側面があるということを踏まえたうえで、その両方の側面を充実させ、ときに切り分けながら往復していくということが、良い実践のためには必要になっていくという次第です。


多くの場合、理論というものは、先ほども申し上げた通り、私たち一人だけではなかなか触れることができない過去の例にその起源を持っています。少なくとも何らかの根拠を持っています。

どのような理論であっても——哲学上の古い議論などであっても——、全くの根拠なしに・空想的に出てきたというものはありません。あるいは空想から出てきたものであれ、空想というすばらしい根拠を持っているのです。

古代ギリシャからして、少なくとも当時には大いなる説得力を持っていた神話や、あるいは実体験や観察から、様々な事柄に対する理論が生成されている場です。それは私たちが無条件にしがちな「科学的」な認識とは異なるかもしれませんが、ともかく様々な例や枠組みに基づいて理論というものが形成されているのです。広義の例から抽象され、新たに応用しうるかたちに直されたものが理論であって、それゆえ理論というものは、何らか広い意味での経験を現場から引き剥がして、統合・抽象化したものだというわけです。

そうして得られた理論というものは、もちろん個々別々に状況は違えど、私たちが立ち向かうことになる場においても役に立つことが期待されるものでしょう。

もちろん過去の事例と、私たちがこれから立ち会うことになる事例とでは、前提が大きく異なりますし、それゆえ過去の事例から抽象された理論を綺麗に応用できるということはほとんどないのかもしれません。そもそも私たちは今ここに生きていて、時空間的に代替不可能なわけですから、そういう意味で、理論は、洗濯機の説明書のような仕方で用いることのできる魔法の杖ではありません。

とはいえ、やはり同じく人間という生物がやっていることですから、過去のことに何かしら近いことは起きるのであって、だからこそある一つの単語や表現が変わらず同じものを指すという或る種の幻想が成立するのですし、その意味で、歴史は散発的に繰り返されるのです。

そのような散発的な反復ないし変奏に対応するための、いわばワクチンとして、既に構成されている理論は大いに役立つことでしょう。

ものすごく単純に言い換えるのであれば、理論=机上の空論=(悪い意味での)お勉強=役に立たない、という思い込みは捨ててみても良いということです。勿論実践のモメントは欠かせないとはいえ、それは比率の問題であって、理論の価値をことさらに切り下げる必要はないということです。


私たちは当然、職業的な場や趣味き場において実践を行うわけですが、そうした実践というものは逐一自らの言葉で反省し、理論ないし持論として言語化しておかなければ、後々の実践において活用しうるものとして積み上がることはないでしょう。実践は理論化の作業を経なければ、将来の実践に反映されないということです。

よほどカンの良い人であれば別ですが、やったものをやりっぱなしにしていても、そのやった経験というものはなかなか身にはならないものです。

寧ろ原因から結果からそのメカニズムまで、すべて突き放して眺め、過去の事例と比較して、持論・理論の一部に落とし込む必要があるのでしょう。


自らの実践において理論を組み上げ、また外部の実践に基づいて形成されてきた理論を実践に活かすという作業が、つまり経験や具体的なものの二面性を確認してそのふたつの面をどちらもゆるがせにしないということが、私たちの良き実践のためには大切ではないかしら、ということです。

この観点の何がよいかと言えば、時間的観点を意識しうる、ということで、対象に対する認識が時と場合に応じて変化しうる、ということを確認する機会になるということです。特に、実践の相のもとに捉えられていたものが理論へと転換される側面を強調することができますから、理論を実践に生かすという側面のみならず、実践から理論を組み上げる、というモメントの重要さもまた意識することができるのかもしれません。

理論はそもそも過去の実践であるという点、実践は理論化されねば未来への波及効果を持たないという点を踏まえて初めて見えるものもあるのではないかしら、ということです。

■【まとめ】
・理論と実践は互いに対立し合っていてしかし双方的に働く、と捉えるのももちろん良いが、寧ろある活動に継続的にコミットしていくことを前提する限りにおいて、理論と実践は、同じ現象や事例のわずかに異なる現れであると捉えることもできる。

・理論は実践から生じてくるものであるし、実践は理論に落とさなければ次の実践に生かすことができない。

・重要なのは、一つ一つの例が持つ二つの側面を意識しながら、その双方を充実させ、その間を意図的に往復する作業であるように思われる。