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【535】エンドコンテンツの彼方に

endgameないしはendgame contentとは、日本語では「エンドコンテンツ」と呼ばれ、ゲームの通常のシナリオの彼方に設定される「コンテンツ」です。

高難易度で、何度も繰り返し遊べるようになっているようで、遊んで貰えるように報酬が高く設定されていることなどもあるようです。

ポケモンで言えば四天王戦でしょうか、と言うと時代を感じさせてしまうのかもしれませんが(私は「金銀」で時代が止まっています)、とまれ

あるいは『不思議のダンジョン2 風来のシレン』などはどのダンジョンも毎回新たに繰り返しプレイできますが、最初のシナリオをクリアすれば新たに3つのダンジョンが開かれます(そしてそのいずれも、繰り返しプレイできます)。そのうちのひとつである「フェイの最終問題」こそは、恐らくエンドコンテンツでしょう。


が、ガチガチにプログラムされていてなお、エンドコンテンツは、永遠の反復サーキットは、全てを尽くすものではありません。製作者の予期しないかもしれない「やりこみ」があります。

たとえばアクションゲームをノーダメージでクリアするとか、RPGでパーティーのメンバーを増やさずに、あるいは特定のアイテムを取らずに攻略するとか、そういった試みは必ずしも製作者が予期するものではありません。各種タイムアタックの試みもまた、含めることができるかもしれません。

私がかつてやっていた範囲では、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』が、発売後20年以上経ってなおそうした「やりこみ」の余地を広げ続けています。いったいどう頑張っても正規ルートでは数時間かかるゲームを10分かけずにクリアしようとする人がどこにいるのでしょう。あるいは、大地を歩く人の形をした主人公が爆弾を使って空中に浮遊しつづけて本来上がれない高さまで浮上するとか、常時当たり判定を発揮しつづける刀の残像を作り出すとか、あきビンをバグらせてオカリナにするとか、壺を持ち上げるときに爆風を起こすことで「無」を持ち上げたことにして内部メモリをバグらせるとか、いずれも予期されたプレイではないでしょう。
 
あるいは上述の『不思議のダンジョン2 風来のシレン』などは、本来のエンドコンテンツとして設定されているはずの「フェイの最終問題」ももちちろん重要であるにせよ、寧ろアイテムの点で制約が厳しく、(16階で終えられるものの)99階を超えて無限に潜ることのできる「掛軸裏の洞窟」のほうが、コアなファンには人気のようです。

いや、実のところ、「掛軸裏の洞窟」を99階まで潜るのは、慣れればそこまで困難ではありません(もちろん運は必要です)。しかし使用するアイテムにさらに制約をかけると(細かく言えば、モンスターの「肉」の使用を禁止し、以って主人公の変身を禁じることにすると)、難易度が跳ね上がります。

これらもまた、エンドコンテンツというより、その彼方に勝手にプレイヤーが設定した目標と言えるでしょう。

謂わば設定されたルールの彼方に、あるいはルールの範囲にあるエンドコンテンツの彼方に、見えていなかった・普通は見えないはずの世界が無限に開かれているということです。


最近大流行の(?)スマホゲームなどに、果たしてエンドコンテンツのその先はあるのでしょうか。

最初から終わりがない、というものも珍しくはないでしょう(いや、私はやらないので、『ウマ娘』やら『マギアレコード』やらやっている知人から聞いて推測しているのですが)。あるいは「エンド」があまりにも簡単に迎えられて終わりといった感も与えず、永遠に反復しつづけることに、つまり最初からエンドコンテンツであることに、そもそもの生命を持っているのがもしれません。決められたプラットフォームにおけるプレイヤー間の対戦が奨励されていると、それもエンドコンテンツならざるエンドコンテンツかもしれません。

そうなってくるといよいよ、運営側・コンテンツ作成側の意図を超えることは難しいのかもしれません。コンテンツは(キャラクタやクエストは)順次追加されます。バグらせることも一層難しくなるでしょうし、買い切り型のゲームとは異なり、運営が優秀であればなおさら、バグもすぐに修正されてしまうことでしょう。

要するにコンテンツが投げっぱなしにならず、サーヴィスが続く限り統御されつづけるので、プレイヤーの側は永久に運営の掌の上で踊りつづけるのですし、運営・制作側の意図を超えたプレイというものもなかなか困難になるのでしょう。その掌から飛び降りる方法は、もはやプレイを続行することではないはずです。


決められた柵をすり抜けて広いところを駆け回るのが常に良いことだ、などと言うつもりはまったくありません。とはいえ柵を用意する側、「終わり」を用意してぐるぐると走らせる側、あるいは見かけ上の放牧地を拡大してはいるものの柵越しにしか外を見せずに飼い殺そうとする側の意図にハマってしまってはいないか、ということは、それぞれの文脈において、一度くらい考えてみてもよいでしょう。

「終わり(finis)」とは実に「限界(finis)」のことで、「限界を超える」などというと安っぽい自己啓発のようで嫌気がさしますし、然るべき限界はある——たとえば人間は目でピーナッツを噛むことができず、腕を動かして空を飛ぶこともできない——のですが、その限界がそもそも引き受けられるべきものなのか、ということは常に吟味にさらされうることです。仮想的に柵の外に立つということです。

枠の中で遊ぶのはよいのですし、ほとんど全ての分野において、枠を守る・枠の範囲でひとまず取り組む、ということは大切ですが、とはいえ枠の外に広がる世界がありうる、ということは一度くらい考えてもよいということです。