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【470】『ジョゼと虎と魚たち』を観ずに語る

田辺聖子原作の短編『ジョゼと虎と魚たち』は、既に2003年に妻夫木聡と池脇千鶴の主演で映像化されていますが、最近知ったところでは数ヶ月前にアニメ映画版が出ていたようで、フランスでも数週間前から公開されていたようです。私の住んでいる街でももう公開されているので、中途半端なアニメオタクとして、明日行こうと計画しているところです。


この手の翻案、つまり広く取って紙媒体の作品の映像化が行われる際によく立ち上がるのは、原作からどの程度ずれるのかという問題です。この問題で思い出深いのは橋本治『半分の月がのぼる空』の映画がまさかの筋書きを採用したことですが、おそらく今回の『ジョゼと虎と魚たち』でも、極めて強い違和感を覚えることになるのではないかと感じています。

私は田辺聖子作品を大好きだというわけではなく、たまに買って読むくらいで、『ジョゼと虎と魚たち』についても小学生の頃に読んでいたものですから、思い出しがてらkindle版で買って読みつつ、アニメ映画の予告編を見るにつけ、これはかなり原作とは違うものになっていそうだな、と思いながら少しワクワク感を高めつつ明日の観覧に備えているところです。


人によって、翻案に対する向き合い方は大いに変わってきます。いろいろなレベルにおいて変わってきます。原作を最大限重んじることを重視するという人もいれば、原作から離れた別の表現手段ならではの魅力を見出そうという人もいますし、もはや別の作品としてみたい、という人もいるでしょう。

「原作がある」ということは当然原作とは異なる伝達の手段を取るわけで、同じ内容になるわけがない、と個人的には思いつつも、当然「原作」としているからには無関係というわけにはいかないわけで、翻案には実に微妙な力関係があり、それが面白いものです。

今回についても、短編『ジョゼと虎と魚たち』が持っていたような素材を活かしつつどのように100分という長い尺のアニメーションに料理しているのか、が楽しみであります。


そうして楽しみにするにあたって、ということですが、私が映画であれ何であれ触れる時に心がけているのは、ある意味では倒錯した態度かもしれませんが、積極的にネタバレに触れてから作品に取り組む、ということです。

今回も原作を読み直しましたし、またいくつかの感想の類や、アニメ映画の予告編などを見ながら、どういう違いがあるんだろうなあ、ということを想定しつつ観覧に臨みます。

このプロセスは、私にとってはできるだけ周到であるほうがよく、周到であればあるほどきちんと没入できるという感覚があります(あくまでも私にとっては、です)。観る前から勝負(?)はついているわけで、返り読みの許されない、しかも観る回数の限られている視覚テクスト(典型的には映画や、ナマの絵画)を解像度高く読むためには、相応の準備が必要になる、ということです。

返り読みできない映像作品にネタバレなしで触れたのは、幼少期に見ていた日曜朝のアニメや特撮を除けば、リアルタイムで見ていた(原作なしの、それゆえネタバレができない)アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』くらいではないでしょうか。


おそらくは次に見られるいくつかの点で、原作とアニメ映画版は大きな違いを持っていることでしょう。

まずアニメ映画版は、予告編(トレイラー)を見ただけで分かる通り、小説よりも登場人物が多い。これはもらろん2003年実写版と同様です。原作は極めて短く、主要と言ってよい登場人物はジョゼと恒夫(とジョゼの祖母)だけですが、これを100分の映画にするのは極めて大変なので、登場人物を増やしたという成り行きでしょう。(あるいは増やしてでも一定の尺を持つ映画にしたい、と思わせるだけの何かが、この作品にはあったということです。)

そして登場人物が増えるということは、おそらく恋の鞘当てを発生させる物語になっているのではないか、と思われます。

つまり良くも悪くも俗っぽい恋愛物語として売り出す、という側面があるのではないかという気がしています。もちろん原作にも恋愛という要素は大いにありますが、そもそもジョゼと恒夫しか出てきませんから、恋の鞘当てはまずありません。原作は「幸福な恋愛物語」のようなものでは全くないところ、アニメ映画のように恋の鞘当てを発生させてしまうと、しぜん、在る一定の契約や了解が成立した段階でハッピーエンド、という或る種陳腐な恋愛物語になる可能性があるでしょう。

原作の終わり方は手放しのハッピーエンドというものではない。それどころか「終わった」という印象すら与えないとも言えます。「暗い」と言うとあまりにも単純かもしれませんが、少なくとも描かれるのは、手放しの幸福ではありません。原作の最後の方では、二人の関係の中途半端さが強調されます。「二人は結婚しているつもりであるが、籍も入れていないし、式も披露もしていないし、恒夫の親許へも知らせていない。そして段ボールの箱にはいった(ジョゼの)祖母のお骨も、そのままになっている」という描写から分かる通りです。ジョゼはこの中途半端さを受け入れています。「そのままでいいと思っている」のです。

恒夫がそばにいる限りでのこの中途半端な幸福を受け入れつつ、しかしその幸福というものを考えるときに、それを「死と同義語」として捉える。「完全無欠な幸福は、死そのものだった」と言われている通りです。かかる死体のようなありようが、海底洞窟の水族館をたゆたう「魚たち」にたとえられているというなりゆきです。

別に「死」という単語があるからマイナス思考だ、などというバカバカしいことを言いたいわけでありませんが、このような幸福と死の溶け合う様を、予告編にあるような絵柄のアニメで描ききることができるのかしら、という気持ちはあります。

さらに言えば、予告編の最後の方では、明らかに恋愛がうまくいってハッピーというような雰囲気しか読み取ることができないのですね。これは私が鈍感だからかもしれませんし、もちろん予告編詐欺(本篇で裏切る)ということもありえますが、少なくともさしあたってはそう読めるということです。

つまるところ重要な主題、「魚たち」が表示する内容、幸福と死の一致をどのように描くのか、あるいは描かないのか、ということがまず楽しみなポイントです。


「魚たち」の他にもう一つ出てくる動物、つまり「虎」についても、おそらくは極めて大きな改変がなされているはずです。

原作では、特に祖母の死後のジョゼは、明らかな貧困層として描かれます。元々足が不自由なジョゼは、ともに住んでいた祖母の死後には生活保護を受けて生活するわけですが、階段のない安いアパートを選ぶだけでも苦労したわけですし、越した先のアパートでこそ「虎」に出会います。

アパートの2階には「気色わるい中年のオッサン」が住んでおり、ジョゼに対して「お乳房さわらしてくれたら何でも用たしたる、いうてニタニタ笑」うのですね。

これ、初めて読んだときの、今よりもずっと純朴だった私には衝撃でしたよ。

明確に、貧しい身体障碍者に対する性的暴力ないし搾取(の可能性)が示唆されているわけです。ジョゼが実際に物理的被害にあったという記述はありませんが、少なくとも暴力や搾取があるということ、その対象になりうるということを告げ知らされることもまた構造的な暴力であって、原作のジョゼはそうした環境を生きているわけです。

原作の「虎」の際立った具体例は、このオッサンですよ。ジョゼが恒夫に見たいと言った「虎」、「怖うてもすがれる」「好きな男の人が出来たときに」こそ見たいと思った「一ばん怖いもの」は、そうしてジョゼに牙を剥きうる環境全般であって、その具体的な形象が「虎」だったというなりゆきです。

祖母はジョゼを外に出したがらないとは言っても、原作のジョゼ本人は「外へ出たくてならなかった」のですし、単なる未知の外界それ自体は恐るべきものではないのです。寧ろ避けがたく「繊い人形のような脚」しか持たない、そうした貧弱なものとしての自分に牙を剥きかねないものとしての外界こそが「怖いもの」であり、「虎」でしょう。

が、アニメ映画の方だと、様子は違うかもしれません。予告編でも明確に聞き取られたのですが、ジョゼは少なくとも「夢」を持つだけの余裕があるようです。日本語の予告編では、「夢は夢、現実は現実や」という台詞に続けて、ジョゼの「願いがかなうなんて、迷信やったんや」という台詞が置かれます。

この箇所のフランス語字幕(Un rêve reste un rêve, la réalité est différente/Les rêves ne se réalisent pas)はわりと日本語音声に忠実ですが、フランス語吹替版はジョゼの台詞が抹殺され、「夢を実現したいと思うことと、現実との間には大きな懸隔がある。あなたはこのことを誰よりもよく心得ないといけない(Il y a une grande différence entre vouloir réaliser son rêve et la réalité. Vous devez le savoir mieux que quiconque)」と言われます。

もちろん後半からは、ジョゼが障碍者であるがゆえに夢をかなえることがいっそう困難である、ということが示唆されますが、とまれその日暮らしで大変だ、という状況ではなさそうです(しかしこの「夢」とは、絵が広げられている感じでは、絵描きになることなんですかね。原作にはそんな描写は全くありませんが)。

ということは、生活保護・安アパート暮らしで性的暴力の危機にさらされているという状況でも無さそうです。あるいはそうした基礎的なレヴェルでの不幸は、少なくとも減殺されていると見てよさそうです。

つまり、原作で強烈に描かれていたような身体障碍者に対する性的搾取の力学のようなものは描かれない可能性があるのではないか、とさえ思われます。それに、そもそもかわいらしく軽めのタッチのアニメで、そうした問題を取り扱うことがどこまで可能なのか、という問題ももちろんあります(文字だからこそ描ける残酷さもあるということです)。上に見たように通俗的な恋愛物語になるとすれば、こうした「虎」の描写は一層困難でしょう。

こうして、「虎」がどのような比喩なのか、ということはについてはおそらく原作とアニメ版とでは大きな差があるはずです。どうなるかは予想しづらい面がありますが、確認したいポイントです。貧しい身体障碍者が立ち会う回避不可能な暴力、という要素が副次的なものでしかなくなるときに、この物語が、「虎」がどういう意味を背負わされるのか、ということでもあります。


あと、いろいろ読んで気づくのは、恒夫もかなりの主体性を持たされさるということです。原作はそもそもジョゼが主人公で、視点もほとんどジョゼですが、恐らくアニメ映画のほうでは恒夫のほうこそが語り手に近い位置にあるのではないでしょうか。(日本で彫琢されてきたアニメというかアニメ絵が全般的に、女性によって観客が眼差される構造に向いている、ということを反映するようでもあります。)

あと、予告編では特にわかるようには書かれていなかったのですが、主人公である恒夫が事故にあって足を怪我するようです。これはある側面では、足の不自由なジョゼの苦しみが共有される、ということではないかと思われます。こうして同じ状況に立たされることで、相互理解が進む、という筋書きではないか、という下衆の勘ぐりがなされるところです。

そしておそらく、わざわざ主人公の足を怪我させるということは、その足の怪我によって、恒夫が制作者サイドの手で持たされていた夢への進路が阻まれるということがあるわけです。そして同様に、上で見た通り、ジョゼも夢を持ち、しかもその夢は(部分的には障害ゆえに)たやすくかなうものではないのでした。

こうしてみると、おそらくこの映画全体の筋が、「人生には大変なこともあるけれども、手を取り合って前向きに生きようね」というようなことにされているのではないか、という気がします。というかそうした危惧があります。

それはそれで作品のメッセージとしては別によいのですが、原作が持っていた最大の価値(と思われる要素)、つまり幸福と死の溶融・中途半端にたゆたう「魚たち」の表象と、どう平仄をあわせるのか、という点はやはり気になります。あるいは中途半端さや、黴を孕んで静かに朽ちていきそうな緩慢な滅びの幸福がないとすれば、これを「原作」とする映画はいったいどういったものになるのでしょう?……


もちろん最初の方で見た通り、原作をどこまで尊重するか、ということは人によって色々な観点があってよいとは言え、『ジョゼと虎と魚たち』をはっきりと「原作」とするとはっきり言い切ることには意味があるわけで、どういう意味において「原作」なのか、ということを測ることには楽しみが見込まれるのです。

良い悪いは別にして、このくらいは少なくとも考えてから作品にあたるのが日常だ、というわけです。

あるいは哲学テクスト・文学テクストであればもっと周到に準備しますし、場合によってはもとのテクストを通して読むことが重視されない場合すらあるでしょう。(いったいトマス・アクィナスの研究者のうちの何人が『神学大全』を通読しているのでしょうね。ほとんどいないと思いますが。)

今回は「こうした読み方もあるよ」いう一つの実例でした。積極的に推奨するかどうかはともかく、これくらいやっておく作業は、映画とか美術作品のように、観る場面や回数が限られる場合には実に有用ですよ、と述べて終わりにしたいと思います。