【144】空腹や眠気や芸事は、翻訳を通じて学ばねばならない

空腹という感覚がいまいちわからない、などと言い出すと、太宰治の代表作として知られる『人間失格』を読んだ若者のある種の「かぶれ」だと思われるかもしれませんが、実際私は太宰など読む前から、空腹というものがよくわかりませんでした。

とはいえ、空腹ということ、あるいは食べ物を食べるということを、太宰が(自らを投影しつつ)描いた大庭葉蔵のように恐ろしく思うということはあまりなく——小さい頃に食卓につくと、残して怒られるのではないかといつも恐々としていましたが——、寧ろ特に成人して、自分で好きなものを食べられるようになってからは、食べることは好きな活動のひとつです。少なくとも食べられている目の前の対象に精神を注ぎ込むことができるので、あるいは単に舌の上に複雑な快楽をもたらすので、幾分気楽です。

しかしともあれ、空腹ということは未だに腑に落ちて理解できている感じがしませんし、私が「お腹すいた」などと言うときには、ある程度複雑な翻訳作業を経てその言葉に至っている、という事情があります。


「空腹」のわからなさは、他の感覚との区別が難しい、というかたちであらわれます。

具体的に言えば、私は空腹と眠気の区別がつきにくいのですね。このことに気づいたのは10代の終わり頃です。ひょっとすると、部活で帰りが遅くなってどうにも眠いときに空きっ腹でご飯を食べる、ということを繰り返しているうちに、空腹と眠気が接続されてしまったのかもしれません。満腹感のほうでなく、空腹感のほうが眠気と結びついてしまったのかもしれないという成り行きです。

なんとなく気だるく不快な感じがある、というときに、自分が眠いのか、お腹が空いているのかがよく分からないことがあるのです。これは今に至るまでそうです。

ですから変な時間・変なタイミングで何か不快感を感じたとしたら、栄養が足りていないのか、眠いのか、即座には判別できず、したがって一人で家にいるときにはひたすら物を食べるということになりがちなのです。

物を食べても効果がすぐに現れるとは限りませんから、しばらく経ってようやく、ああ体が欲していたのは睡眠だったのだな、と気づくことはありますが、それも事後的な気付きでしかありません。

そう気づいたときには、眠気というものが一山起こして、もう不快感が体に不快感が無くなっているということはしばしばあります。

逆に、眠いのだろうと思って床に入ってみても、なかなか寝付けなくて、「ああこれはお腹が空いていたのか」と気づくこともあります。


何かおかしなことを言っていると思われるかもしれませんが、実際おかしいのかどうかは私や皆さんが決めることではなく、それはそれで私にはあまり重要ではないことです。

私にとって重要なのは、これでもかなり空腹とか眠気というものを分かるようになってきた、ということですし、そもそも論を言えば、身体感覚と言語というものは要するに個人的なものと公共的なものの差であって——これは便宜的な差でしかありませんが——、これが寸分の狂いなく一致するという状況の方が気持ち悪いように思えてくるのです。

それはともかく、周りの人があまりこういう世界を生きていないということを知りつつあり、これはネタになるな、と長いことぼんやり思っていました。


眠気と空腹の区別がつかない私が何をしているかといえば、区別がつくかのように生活しているわけで、「お腹が空いた」とか「眠い」とか言うわけですが、何をしているかといえば、文脈を半ば意識的に言語化しているのですね。

このような状況下で、体にこのような表情が現れているからには、私のこの体の現象は眠気に対応していると判断するのが適切であろうという逐一考えて、「眠い」と言っているのです。

あるいは空腹についてもそうです。私はお腹が鳴ったことが生まれてこの方一度もありませんが(少なくとも記憶にありません)、おそらくお腹が鳴ったら自分は空腹なのだな、という風に言語を回し始めるのでしょう。あるいは他の何らかの表徴から判断を積み上げて、実践へと結びつけるのです。

例えば、起きて1時間ぐらいしか経たないのに頭が回らないとなったら、それは眠いのではなくお腹が空いているのだと判断して、ご飯を食べます。

例えば、学会発表をかれこれ5時間も聞いていてなんだかだるいということになったら、眠いような空腹のような曖昧な感覚があるけれども、同じ学会に顔を出している友人を見かけたら、休憩時間には「もう眠いや」などと言います(「お腹が減っちゃって」ではないよな、と判断するということです)。

つまり体の文脈を言語に移し替えるという、おそらくは無意識にやるべきことを、ある程度意識的にやっているのですね。そうして落とされた言葉の側から、特定の体の行動を選択して実施する、というようにしているわけです。


こうした身体感覚に関わる表徴からの判断を、意識的に言語を介してやっている人がどれだけ多いのかは知りませんが、少なくともこうしたプリミティブな欲求に関わらない芸事などに関しては、よくやられていることであるように思われますし、寧ろそうしたプロセスを踏むことは非常に重要であるように思われます。

絵を描くでも、楽器を演奏するでも、ヨガでも、何でも良いのですが、身体感覚というものが重要になってくる領域では、必ずしもメソッドというものが厳密に明確に言葉で描かれているわけではないのです。あるいは確立されたメソッドのあらゆる細部が個別の人間にうまくあてはまるわけではないのです。

だからこそ教師が様々な言葉を用意して教える必要があり、また目の前で実践してわからせる必要があるのですが、結局のところは習っている本人が自らの体の動かし方と言葉とを紐付けていなければ、定着させることは難しいでしょう。

その言語というのは、例えば比喩やイメージであるかもしれませんし、あるいは解剖学の用語を用いた言い方かもしれません。解剖学にしたって、一つの運動には複数の筋肉・複数の骨・複数の関節が関わってくるわけですから、どの場所を参照しつつ言葉を編んでいくかで、個人に応じて結果というものは変わってきますから、こういう場合にはこうすれば良いのだこういうこういうことを身体の上に実践したかったらこういう言葉を思い描いて実践すればよいのだ、ということを、個々人が考えて言語として持っておき、自らの身体に落とし込んでいく作業というものは必要になってくるはずです。

このプロセスは、手前味噌で恐縮ですが、私が様々な状況から空腹だとか眠いとかいう表現を引っ張ってくるのにほとんど同じなのですね。

皆さんは(ほとんど)無意識に、ある身体的状態について、「眠い」とか「空腹だ」とか言うわけですが、私はその間に意識的なプロセスを挟んでしまっている、というだけのことであって、間には意識的であれ無意識的であれ言語が挟まれています。

ひょっとしたら、小さい頃に学ぶことであれば、明確な自然言語を経由することはないかもしれませんが、ある程度歳を重ねて、自然言語なしにものをみることができなくなってしまった不幸な私たちは、芸事にせよ何にせよ、自然言語を介して学ばざるをえないでしょう(私は空腹とか眠気とかについて、そうする必要があるということです)。

外国語の文章を読むときだって、少し複雑な構文などが出てきたら、初学者は例えば別の例文を思い浮かべてみたり、あるいは逐語訳的に考えてみて、そこから意味を類推したり、といったステップを意識的に踏んで理解しますが、徐々に体に落とし込んでいくと、一足跳びに理解できるようになるかもしれません。

しかしそれは、あいだにあるプロセスを完全に省略しているわけでもなければ、あいだのプロセスがなくてもよかった、というわけでもありません。語学の学習に関して、乳幼児の言語習得プロセスを模倣するという非現実的な観点を持ち込む人もいれば、無意味な反復を推す人もいますが、寧ろ意味を理解しながら、つまり自分の持つ言語的文脈に様々なかたちで落とし込んで理解しながら勉強を進めることが必須であって、それ以外に知的な学習の方法はないでしょう。

その点で見ると、自分の周りの人々が使っている空腹や眠気という言語を翻訳し、自分の身体的条件と比較考量する、というプロセスを経ていたからこそ、語学に対してもある程度の適性を養えていたのかもしれない、とも思われるのです。


今回申し上げたいのは、言語化するのが複雑で、理論と実践の間に著しい乖離があるとされる領域については、意図的な翻訳のプロセスが重要になるよね、ということです。

ある成果を記述する実践的な言葉があるのであれば、それを自らの文脈に生かすためには自分で翻訳して持っていなくてはならないし、翻訳したうえで、自分が生かし・伝えるときにはまた再度翻訳しなくてはならず、言わば再翻訳(復文)のプロセスが必要になるわけです。

こうしたプロセスが求められる、思うと実に大変に見えるかもしれませんが、大変なことであればあるほど波及効果というものは高いものですから、皆さんも意識して翻訳したり、訳し直したりするという観念を取り入れてみるのも良いのではないでしょうか、ということでした。