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【289】長期休暇は憂鬱だから/あなたはアメーバ的生活を送りたいのか?

高校生の頃、長期休暇が憂鬱でした。

そんなことから。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


長期休暇が憂鬱だったというのは、楽器の練習を思うようにできなくなるからです。

防音室でもなければ、一部の管楽器は家の中で練習することができません。ずば抜けて裕福なわけでもない、そして子供の趣味に特に多額の金銭を費やすつもりのない家庭に育っていれば、家で楽器の練習をするのは現実的ではないわけです。

練習できる場所を借りると言っても、子供の資本力には限界があるわけですし、外で練習しようにも、近所迷惑ということを考えると場所は限られます。ようやく見つけた場所でも、先客がいると吹くのをやめろと言われることもしばしばでした。

なので、長期休暇になると、楽器を吹くのをしばらくお休みせざるをえないこともあったわけですが、久しぶりに楽器を吹いてみると、自分の腕の落ちていることにとてもがっかりするということがしばしばでした。


皆さんもひょっとしたら体験されたことがあるかもしれませんが、長いこと休んでいると、調子を取り戻すのに結構な時間がかかるのですね。

純粋に物事に取り組む体力が落ちていますし、カンのようなものも長くやっていないと鈍るもので、特にしばらく休んでいて再度練習を始めるときには、入念なウォーミングアップが欠かせませんでした。

断食明けの胃に重たい食事が禁物であるのと同じで、また航空機が離陸するまでに助走が必要であるのと同じで、休み明けの練習にはかなりの注意を要したわけです。

もちろん、休み明けだからこそ、自分の吹き方の中で良くない部分を抜本的に修正するチャンスにもなるわけですが、内心では、学校の夏休みや冬休みなんてものはなければ良いのに、と思っていました。

別に勉強が大好きだったわけでもなく、教室で友人と語らう時間を慈しんでいたわけでもありませんが、楽器を吹くためだけに、休みなんてものを全くなくしてくれと思っていたわけですね。


新年になって数日経って、もう仕事始めだ、という人も多いでしょう。もちろん年末年始も休まずに仕事をされていた方、あるいは仕事をせざるをえなかった方もいらっしゃるでしょう。

誰であれ、おそらく、ご自身や周囲は「年末年始は休むものだ」と思っているわけで、自分がどう思おうとも、この力学に巻き込まれざるをない面がありますから、数日は休みといってもよいような時間を得て、紅白歌合戦を観たり駅伝を観たりしながら多少気を抜いていて、ようやくエンジンがきちんとかかり始めた、という方もいらっしゃるかもしれません。

そうした方々も、いきなり休みの前と同じ量の仕事を同じ密度でやるとなれば、結構な疲れが感じられたのではないでしょうか。

もちろん休みの日は休みの日で、自分としてもやっている営みがあるのだとしても、その期間には仕事に挑む筋力のようなものは少しく衰えていて、再び取り掛かろうと思ったときには若干の抵抗があったり、あるいはやりおおせてもいつもより疲れが出たりしたのではないでしょうか。

これはこれで、新年の風物詩として片付けても良いのかもしれませんが、別の向き合い方もあると思うのですね。


それは、休暇などというものを自らに与えない、という方策です。

私が申し上げているのはもちろん、年末年始も出勤しよう、ということではありません。職場によっては(特にこのご時世では)難しいかもしれませんし、必ずしも物理的に職場へと赴く必要はないでしょう。

寧ろ、休みの期間こそ、自分の仕事や、自分の仕事につながりうる学びを深めていく良い機会になるのではないか、ということです。

これはもちろん、休み明けにシームレスに仕事に取りかかれるように、ということでもありますが、もっと広い意味で、時間を積んで生活を自らの手で支配できるように、ということでもあります。

年末年始に限らず、あらゆる休みの日というものに関して、同じことが言えるでしょう。

もちろん「休み」というものは、いくら自営業者であろうと、完全に自分で定めることも、そうすることもできないわけです。世間や社会や勤め先や取引先といったものとの関係において定まるわけで、その限りで、「俺が休みなく働くんだからお前らも休みなく働け」と訴えるわけにはいきません。

しかし、少なくとも自分に対しては、自分の邁進するべき仕事や、それにつながる学びに時間を振り分けることができるはずです。

あるいはもちろん、自分が目下金銭を得ているところの領域に一切関わらないことであっても、自分が打ち込みたい勉強や学習に時間を積んでみてもよいのでしょうし、場合によっては、自分が打ち込むべきものを検討して見定めるための時間にしてもよいのかもしれません。

世間で言われるところの休み、あるいはあなたが取らざるをえない休みというものをなかったことにして、自らにとって有意義な営みをより高い密度で行う時間にしておくことが、ある意味では重要になるのかもしれません。

こうした態度は、休みの日にだらけて気を抜いてしまうよりも、よほど後悔に繋がりにくい生き方であるように思われます。


特に、逆説的ですが、自分が週4日なり5日なりを捧げている仕事に気が入りきらない人こそ、所謂「休み」に気を抜いてしまうのではなく、寧ろ積極的に動いてみるとよいのではないでしょうか。

熱心に取り組むことのできる対象がない、という状態はおおいに心を蝕みますし、社会全体が大いに傾きつつある中で、社会と心中したくないのであれば、外部から与えられた「休み」に合わせて気を緩めているという選択は、ありえないのではないでしょうか。

それはあたかも、アメーバのように与えられた刺激にその都度反応するかのような、未来のまるで見えていない、極めて近視眼的な、あるいは何も見えていない盲目的な態度ではないでしょうか。

問題になるのは休みばかりではありません。所謂「イベント」だってそうです。クリスマスに乗るにせよ乗らないにせよ、バレンタインに乗るにせよ乗らないにせよ、あるいは伝統的な節句に乗るにせよ乗らないにせよ、そこに十分かつ適切な反省がないとすれば、あなたはアメーバのように外界からの刺激に反応しているに過ぎないのです。早晩、誤魔化しがきかなくなることでしょう。

危機に立たされるのがあなたの人生だけなら、別にそれでもよいのでしょう。

しかし場合によっては、あなただけの問題では済まされません。

あなたが人生をかけて責任を取らねばならない相手がいるのだとすれば——それは子供であれ、パートナーであれ、他の家族であれ——、あなたが取り組むべき対象を見つけ、そこに向けて(平日も休日も休暇もなしに)邁進することは、義務と言ってもよいのではないでしょうか。

社会の成り行きに対する見立てが私とあなたの間で違うとしても、社会が緩慢に崩壊してゆく可能性が少しはある、ということは認められることでしょう。そうならないことを願ってはいても、その可能性を念頭に置いたほうが危機管理としては順当だということです。

そうした危機にわずかでも備えようという気があるのならば、外部から与えられた「休み」なるものに対しても、自分なりの態度をもって接することになるのでしょう。

自分の能力を高めるということでもあれば、知識や人間関係をふくらませるということでもあれば、また計画的に身体や頭脳を休める機会とするということでもあるのでしょう。


高校生の頃の私に一言言うとすれば、楽器を吹けないからと言って寝暮らしたり、無為に本を読んだりするのは悪いことだったとは言えないにせよ、練習できないなら練習できないで、何かもっと別にやりようを考えてもよかったよね、ということでもあります。

皆さんの中にも、皆さんの中でも、目線の高い方であれば、仕事はもちろん休みの間でもしたいけれども、職場から持ち帰れなくてできないとか、同僚がみんな休みを取っているからできないとか、思われる方もいらっしゃるかもしれません。

それはそうかもしれませんが、であるなら、できることを探してやればよいのですし、あるいはもっと射程を広く取って、いわゆる職業的な意味での仕事に直接関わるわけではないけれども、自らの生活に対して波及効果を持つ営みに時間と力を割いてもよいのかもしれません。

これはもちろん、毎日やればよいことですが、長期休暇はまさにその機会になるということです。

まとまった時間を取って、日頃やっているかもしれない、作業と化してしまった労働から一定の距離をとれる時間だからこそ、「休みだ!」と思ってアメーバ的に休むのではなく、休むなら戦略的に休むことが、あるいは気合を入れて頑張るということが必要なのではないでしょうか。

■【まとめ】
・休みの日に、ないしは長い休暇にこそ、敢えて休まないという選択がありうる。そこには、休みが果てた時のパフォーマンスを落とさない、という意味を見出すことができる。

・あるいはそれ以上の意味を見出しうる。外部から与えられた「休み」にあって、機械的に・アメーバのように休むのではなく、その機会にこそ主体的に動いてみることでこそ、得られるものがある。つまり仕事をしたり、仕事へと秩序付けられた何かを行ったり、自分の取り組みたいことが何かを考えたり、あるいは戦略的に休んだりすることでこそ、後悔の小さい・持続的な生活が可能になるように思われる。