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【770】注意欠陥者のための料理環境

牛の心臓をよ〜く下処理して葱爆牛心を作っていました。大蒜を使わない・オイスターソースを使う形式の中華は久しぶりでしたが、なかなか上手くできました。焼き肉では「ハツ」と呼ばれる箇所ですが、コリコリとした食感はタレを絡めつつスパイシーな炒めものにしてもなかなかよい感じです。家庭用の貧弱なIHコンロだと火力が上がらないので、どこかの段階でバカスカ火柱を立てられるくらいのガスコンロを手にしたいものです。もちろん洋の東西を問わずこれはプロ仕様の調理台でしか達成できませんし、プロ仕様の調理台が家の中にあるのはそれはそれでイヤなので、やり方は考えなくてはなりませんが、とまれずっと自分の仕事に集中することなどできず、またレトルト食品の質は(特にフランスは)イマイチなので、料理をするというのはよいものです。


さて料理の代償は一般に時間と労力をとられることですが、注意欠陥者たる私の場合には他の代償があります。包丁を落として足に刺さったり、食器を割りまくったりするということです。先日も足に刺さったので 病院に行きましたし、今回も放置していたグラスを割りました。

グラスは放置していても危ないので流石にすぐ処理するのですが、陶器や割れガラスの処理はもう50回以上やっているにも拘らず、イマイチ慣れません。段ボール箱に新聞を敷いて、軍手をハメて大きな破片を投入するとか、小さな破片は濡れキッチンタオルで吸着してワインかビールの瓶に放りこむとか、ガムテープをぺったらぺったらやるとか、雑巾で拭き掃除をしてそのまま捨てるとか、そういうプロセスに関する知識は身につきましたが、割りたくて割っているわけでも、予定して割っているわけでもないので、やる気がおおいに下がります。

ということで二度と割らないための反省会をするわけですが、その都度思われるのは、非現実的な解決策を持っておこうということです。当座引っ越すつもりはありませんが、引っ越す、ないし家を作るならどういうキッチンにすればよいか、ということです。


注意力が足りないというのは、パソコンに例えるなら、概ねメモリ不足ということです。

パソコンのRAM(メモリ)はしばしば「机の広さ」に例えられます。CPUが机で働いている人の頭脳や腕の回転速度、ストレージが机の引出し(の容量)にたとえられます。メモリ不足というのは、同時にいくつものタスクを保留しておけないということです。ブラウザでタブを100個も開けばパソコンの動作は重くなってきますが、これはメモリが占有されるからです。

私は(こう言ってはなんですが)CPU性能はかなり高いほうなので、集中して何かやるというのは苦手ではありません。ところが、特に肉体を使う段になると、メモリの貧弱さが見えてきます。短期的に多くの作業を並行してやるということは、なかなかできない。コインランドリーに洗濯物を投げ込みつつゴミ捨てと買い物をこなして……などとやっていると、洗濯物を洗濯機の中に放置して一晩過ごしてからようやく気づく、ということすらあります。そんなわけですから、大量に調味料を整えておく必要がある料理とか、複数の作業の同時進行を求められる料理とか(炒めものの様子を見つつ食材を切るとか、アクをとりつつ混合調味料を準備するとか)はなかなか無理です。


で、料理はどのようなものであれ、何らかの作業を同時進行させる必要があります。これは仕方のないことです。ある程度のクオリティを保とうとするのならばこれはどうしても仕方がない。

注意力のない人が安全に料理をしたいなら、広い作業スペースを確保することは必須だ、というのが、当たり前であるにせよ、結論になってしまいます。メモリを確保するということです。流しも、調理台も、常識的な範囲で広ければ広いほどものを重ねる必要もなく並べておけるので、どこに何があるかがひと目でわかります。きちんと縁から遠いところに置けば、落とす心配は減ります。また、コンロは2口では足りません(我が家はIHコンロが2つですが、足りません)。作り終えた鍋、炒める鍋、下処理用の鍋、長時間煮る鍋、などのために3口か4口あるとよいでしょう。

これはパソコンでいえばディスプレイの枚数を増やすことにも似ます。ノートパソコンの狭い画面で何かするというのは私には不可能なので、さしあたって32インチと27インチのディスプレイを置いています(が、狭すぎるので40インチ4枚にしたいところです)。やったことのない人には確実に推奨したいのですが、ディスプレイは多ければ多いほど・広ければ広いほど良いです。ストレスが減ります。

あるいは、問題の根を断つこと。この場合は、「割れやすいものをキッチンに置かない」ということでもよいでしょう。クラッシュしそうなアプリケーションを動かさないこと、にたとえてもよさそうなものです。……私が割るにも拘らずグラスを持っているのは、前住んでいた人が部屋に置いていったからです。

もちろん適切なグラスがあると或る種のお酒はとても美味しくいただけるのですが、私はほとんどお酒を飲まないので、当座無意味です。ということで、食器は徐々に割れないものへと置換されています。グラスはちゃちなプラスチックのコップに置換されます。クリスマスマーケットで出るホットワインのコップなんかは、メモリもついていて軽量カップになるので、計量カップがあまり売られていないヨーロッパでは超・便利です。なお皿は、紙皿を数百枚購入して使い捨てています。洗い物も減りますし、白い皿だと何を置いているのかわかりやすいのでなかなかよいものです。


いやもちろん、料理などしないというのが最もradicalな——つまり、根(radix)に立ち帰る——解決なのですが、それは「死こそが最強のソリューションである!」と言ってビルから飛び降りるのと似たようなものなので、ここではさしあたって無視してよいでしょう。

もちろん料理をしないという選択は全く自由であり、(フランスの外食やレトルト食品の絶望的な質の低さを踏まえても)味にこだわって料理をするという選択は、特に私のような場合には実に愚かです。が、私の場合は、少なくとも今持っているグラスと陶器が全て割れてしまえば、そこまで広くないにせよ、概ねよいキッチンができあがることでしょう。

少なくとも、今すぐできないことであっても、どうであればよいのかというフィクションを立てることは、どうすればよくなるかという現実への反照をもたらすものです。