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【354】「結果が全て」とはどういうことか

「結果が全て」であるとはよく言われますが、これはいったい何を意味しているのでしょうか。「結果」とはなんでしょうか。「全て」である、とはどういうことでしょうか。こうした問いかけはもちろん、かなり人工的ですが、立てておく意味のあるものであるように思われます。

——中学受験をしていた頃に通っていた塾は立派な大手予備校からはかけ離れたもので、駅からしばらく歩いたところの雑居ビルに入っていました。もちろん勉強はそれなりにしましたが、寧ろ記憶に残っているのは、事務と講師と生徒の距離がよかれ悪しかれ異様に近く、好き勝手に試験に関係ない話をし、試験に関係のない本を読んだりそれについて話し合ったりしたことです。

その中で、もはや書名も思い出せませんが、「中学受験で一番いいのは、頑張って、しかし落ちることである」というような主張をしている本があり、それに対して講師の先生方は憤慨し、私は「知らねえよ、どうせ受かるし」という気持ちでいましたが、ともかくそんな本の内容を仮に思い返してみると(つまりその内容を捏造してみると)、合否という見えやすい「結果」ではなく、もっと気を遣うべき・得ようとすべき「結果」がある、そしてその後者の「結果」は、不合格(という過程を経て)によってこそ得られる、ということだったのかもしれません。

受かることを第一にするにしても、寧ろ受からないほうがいいと逆張りをするにしても、「結果が全て」である、とは言えますが、極めて重要なのは、この「結果」が極めて柔軟な、伸縮自在な、こう言ってよければ恣意的なものである、ということです。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、「地味だけれどもあらゆる知的分野の実践に活かせる」ことを目する内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


もっと簡単な、表面的なこと。……

「結果が全て」である、という文言の全体の主張は、「結果に至るすべての手段や過程や努力は、それ自体としては無意味である」という主張と重なることがありえます。特に時限付きのプログラムにおいては、いくら頑張っていても目標を達成できていなかったら、その頑張りというものには意味がない、という言説と大いに通じるものでしょう。

とはいえ、「結果が全て」であるという観点を保ったままに、その結果が未達であった、という状況の中にも何かしらの新しさを、つまり「全て」であるところの「結果」からあぶれた価値を、あるいはAll or nothingの観点からはこぼれ落ちてしまう価値を、読み込むことができるのかもしれません。

上に見ましたが、「結果が全て」であるというのは、謂わば当座の最終的な目的として据えられていたところの結果が達成できなかったら、あるいはその結果において適切な量を満たすことができなかったら、手段として目されていたものはそれ自体特に意味を持たず、注いできた労力も水泡に帰す、という主張であると思われます。

大いに分かる主張です。特に、他人の命や財を扱う場合に、「手を尽くしましたが失敗しました」では困るわけです。「手を尽くしましたが、あなたが預けてくれた1千万円は溶けてなくなってしまいました」とか、「手を尽くしましたが、不幸なことに手術に失敗しました」とか、「申し訳ありませんが来月で倒産しまして給与を払えません」では、仕方のない面があるとはいえ、困るわけです。

もちろんサーヴィスを提供し提供されるという関係であれば、免責事項は設けるわけですし、決定的な困難に陥らないように福祉が機能するわけですが、極端な場合には、適切な結果がなければ意味がない、それどころか意味が負になることさえありうる、という成り行きです。

寝食を惜しんで画面に張り付いて必死で取引をしても、儲からないならその取引は無です。手術のためにどのように高度な機材が用いられ、どれくらい高度な人材が参加していたか、ということはどうでもよく、成否のみが重要で、その点「結果が全て」であるとは言えるでしょう。いくら頑張って昼夜を問わず働いても、倒産したら(ある意味で)おしまいです。


ところが、「結果」をどこに据えるかは権利上自由です。時系列的に最後に出てくる必要すらありません。最後に評価される、ということはありうるにせよ。

自分の活動の一つ一つは社会に組み込まれて他人に影響を及ぼすものですが、当座、行動もその「結果」も自らのものである、という事態は、価値を見いだすべき「結果」をどこに据えるか、ということについて恣意的な変更が可能である、ということを意味しています。

たとえば、ある目的としての「結果」に向けた「頑張り」は、その「結果」が得られない場合であっても、何らか別の結果を生んでいる、と考えうる場合があるでしょう。

頑張りの価値を認めることが可能かもしれません。どのような価値の与え方でもよいのです。もちろん単なる逃げである、という誹りは免れないかもしれませんが、頑張る中で忍耐力が身に付いた、という「結果」でも良いかもしれません。つまり過程や手段でしかなかったはずのものは、当初の目的に至らないとしても、そこから別の方向に枝を伸ばしているものと解釈しうる。そこで果実を、別様の「結果」を実らせている、と見ることができる。

あるいは、結果ないしは当初の目的が達成されたか否か、という0か1かで考える必要もありません。もちろんスイッチを切り替えるように0から1へと行くこともあれば、尺取虫のように0.2、0.4、0.6、0.8とたどっていく場合もあるわけですし、あるいは蛇のようにもっと連続的にうねうね這って行くということもあるわけです。幹が伸びていくなかで、10mまで伸びなくても、8mまで伸びれば、それはそれで結果です。

そう考えてみると、目的に対して未達であったとしても、そしてその目的というものが、質的にであれ量的にであれ達成することが極めて重要なことであったとしても、そこに至る頑張りや諸々の過程というものに対しては、意味を事後的に与えられます。区切ることさえ、分節することさえできていれば、です。

当座の目的-結果に至 るプロセスや、目的のために必要な要素が適切に分節されてさえいれば、少なくとも頑張りを無駄にしないだけの認識的な素地が整えられうる、と言えるのではないでしょうか。


とはいえ、さらにしかし、こうした過程の分節に基づく頑張りへの意味づけや、目標が未達であった場合における意味の与え直しというものはもちろん、なんらか遠くにある結果-目的を仮想して、一度行動を起こしていなければ起こりようがないものであって、その意味ではやはり結果が(過程を賦活するという意味において)全てなのです。

どういうことかと言えば、「結果が全て」であるというのはもちろん、「結果を獲得することが全て」である、というかたちで理解するのが通例であるにせよ、認識の順序としては、最初に結果-目的を思い描いていなければ何も始まらない、その意味で「結果が全て」である、ということは実に言うことができるでしょう。

あるいはこれは、「結果」を求めるプロセスが多くの場合、一度きりでない、ということに関わってきます。あるプロセスにおいて「結果」が得られようと得られまいと、人生は続いてしまうわけですから、もう一度始めなおすにしたって、「結果」が先立っていなければ始めなおすことすらできません。その意味においても「結果が全て」でしょう。


いくつかの意味で「結果が全て」であることを指摘しました。

第一にもちろん、目的が達成されていないとダメだよねということです。

また一つの意味としては、仮に当座の目的に至ることがないとしても、至るまでの過程を適切に文節してさえいれば、その中のひとつくらいは達成されているであろう、という意味で結果を得られるのですし、その過程でえられる(ときに意想外の)果実、つまり能力や経験というものもまたあるわけで、それらに対する意味付けを行うことができさえすれば、それもまた「結果」を得たということになる、ということです。別の言い方をすれば、「結果が全て」というより、「全てが結果になりうる」ということである、とも言えるのでしょう。

さらに、結果として期待されるもの、つまり目的がなければ、そもそも行動を賦活することができない、その意味で結果が認識において先立っていなければ何もプロセスが始まらないのだし、プロセスを分節して別様の結果を認識することもない、その意味で「結果が全て」であるということです。

 ……実に「結果が全て」というのはもちろんごもっともなことですが、一度くらいはその結果とは何か、どういう意味において全てなのか、を考えてみても良いよね、という試みでした。

■【まとめ】
・まとめについてはすぐ上を参照。