【820】ある先生の意外な一面?
最高気温が連日30度を超えはじめて、ああ夏だと感じられる折、他の季節よりもいっそう外に出るのが億劫になりがちですが(そして外に出なくてもやっていける生活空間を構築した自分を褒めたいものですが)、流石に急ぎの買い物とかその他の用事で外出を強いられることはあります(もちろんサングラスと日傘と長袖と日焼け止めが必須装備)。機械が壊れたから修理に出すとか、オペラに行くとか、ですが、どうせ出かけるのならせめて悪い思いはしたくないなあと思いつつ出かけることになります。
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今日もちょっと用事があって午前中は大学におり、幾人かの教員と、博論の具合とか、最近出た研究書とかについてざっくばらんにやりとりをしていました。
話が私の原稿をいつも読んでくださる先生に及んだとき、私の原稿を褒めていたというので、「ご存知だとは思いますが、あの先生はいいことしかおっしゃらないので、あまり信用すぎてはならないとも思います」と口にしたのですが、「え、マジで? 寧ろあの人、言うときはかなり厳しく言う人だけど」と言われる、ということがありました。
他の学生の出してくる原稿や、教員同士の会議で出てくる変な意見に対しては、結構辛辣な態度をとることもあるようなのですね。
これ、私にとっては実に意外でした。
話にあがっていた先生は、まあ神学部にはよくいる、聖職者を兼ねた方です。カトリックの聖職者についてはもちろん組織的な問題が様々にありますが、私が個人的に知り合っている聖職者はいずれも良い人ですし、私には到底真似できないようなおおらかさを持っています。
(なお、カトリックの聖職者の一部が深刻な問題を起こしているということは、聖職者一般が腐敗しているということを意味しません。一部のあくどい儲け方をしている金持ちを念頭において「金持ちは一般に悪いことをやっている」と言うのが誤りであるのと同じくらい、「東大生は勉強しかやってこなかったから使えない」などというしょうもない言説があまりにも一面的であるのと同じくらい、あるいは一部のしょうもないことを言って騒いでいる大学教員を指して「アカデミアはクソ」と言うことが若干の誤りを含むのと同じくらい、カトリックの組織人のひとりひとりが腐敗していると考えるのは誤りです。だいたい、こんな感じで過度に一般化して物事を語る人は、具体例をひとつも知らなかったり、目立つ例にばかり目を向けていたりするものです……という言い方も過剰な一般化の帰結ですが。)
とはいえ「おおらかすぎる」とも言えるわけで、否定的なことを言わない、しかも考えることすらしない、という印象が持たれることはしばしばでした。これは話題になっている先生のみならず、様々な聖職者について。
しかし今回、「いや、あの先生結構批判するよ」ということを聞いて、少なくともその先生についてはは、そうしたイメージが若干払拭された。払拭されてどうなったかといえば、今まで以上に、あるいは今までとは異なるかたちで信頼できるようになったという面がある。
全方面に褒め言葉ばかり言いまくっている人の言葉は、いくら当座の理屈がついていても信用するのが難しく、寧ろ良くないところを明確に指摘する態度を同時に発揮しているからこそ、褒め言葉の、というか対人的な言語運用全体の信頼度が高まる、ということ——をわからせてくれたようでもあります。
褒めるのが大事、とはよく言われますが、「褒めておけばいいんだろ」になっていると頭打ちになる信頼もあるということですし、寧ろある場面においては褒めない、褒めるのだとしてもその前に考える、そうして考えた帰結として褒めているということをしっかり理解させる、ということもまた重要なのだろうと思わされる事例でした。