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蓮の池の午後

 うそのように気温が落ち着いた土曜の午後だ。冷房もオフ、開け放った窓から心地よい風が流れ込むが、やはりそれだけでは足りないので扇風機に助けてもらいながらも心地よい。週の始まりが35度を超える猛暑日であったことを考えるとなんとも信じがたい。

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 都内に長く住んでいるが、上野ってほとんど行ったことがない、というか立ち寄らないようにしてきたと思う。初めて駅に降りたのは新卒のころの仕事だったが、駅前で大きな営業カバンをもって方向音痴ゆえにキョロキョロしていたら、交番からお巡りさんが出てきて家出人と間違えられたことがある…。上野はなんだか落ち着かなくて心細くなるので苦手だ。

 もうひとつ苦手になった理由が、レンブラント展かなんかがきて「これは観ておきたい」と思っていさんで出かけたら途方もない行列ができていた。最後尾をやっとのことで見つけた最後、回れ右をして帰った。並ぶことがものすごい嫌いなのだが、そのときの行列はそういうレベルでなく理不尽な怒りの念すら覚えるほどだった。もうそれ以来、上野に美術展を観に行くことはなくなった。要するに、上野との縁遠さといったら格別なのである。

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 それがまた、仕事で上野に行くことになった。とはいえ厳密にいうと最寄り駅は湯島であったことで気分的にものすごく楽だった。JRが苦手なのと、湯島といえば自分のなかですごく良い印象しかないのだ。駅からすぐ間近に不忍池の蓮池が拡がっている。こんもりとした緑の群生はいかにも涼し気で、仕事が終わったらぜひ立ち寄ろうと決めていた。

 いざ商談も終わり、夕刻になれど日の勢いは衰えないまま、猛暑で散歩人もほとんどいない蓮池のまわりを歩いた。早朝であれば見事であったろう蓮の花は鳴りを潜め、いくつかの花が重たそうに錫杖のような形のつぼみをとがらせていた。もう少し夏が極まれば、ここにもせみ時雨が大変な音響となろう。圧倒されるほど広い蓮池に花が満ちるさまは素晴らしいだろうな、としたたる汗をぬぐいながら思った。

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 ここならまた来たいな、と思いながら駅に向かった。蓮池を背にして。少し歩くと風俗街が上野駅界隈よりもたけなわなのだが、蓮池のまわりだけ静謐で別天地のような格別さがあった。

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