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さらさらと流れる背景音楽のような文章世界

 最近、物語を書きたいという欲求がまたふつふつとわいてきている。ちなみに欲求の割合は低く、生活上の3~5%ほどなので実行していないのだと思う。もともとnoteを始めた理由もそこに関連していて、物語でなくとも社会生活上のペルソナに迎合せず、書きたいことだけ書いて発散したいというような思いがあった。そのうち書き始めてみたいな、、、とも思っている。

 物語を書きたい、と言いながら自分はあんまり筋のある物語を書きたくはないのだ。さらさらと読み流せるようなまるで背景音楽のようなものを書きたい。理由は二つ、一つには物語自体の面白さでぐいぐいと人を引き込むような創作物を書ける気がしないからだ。この群の象徴的な作家はジェフリー・アーチャーとかダン・ブラウン、スティーグ・ラーソンとかだと思う。日本で言えば菊池寛とか。林真理子さんもそうかな。そういえば芥川と谷崎がこういう筋で論争もしていましたね。(参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%8A%B8%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%80%81%E4%BD%99%E3%82%8A%E3%81%AB%E6%96%87%E8%8A%B8%E7%9A%84%E3%81%AA

 そしてもう一つの理由は単純、書けないということだ。時間が捻出できない書けなさ、気力のわかなさ具合、物語を書けないスキル面など、総合的な理由からなる。トライしたこともないけれどおそらく物語の面白味よりも伝えたいことがそこじゃない、という抽象的な思いが根底にあるのだろうと思う。ああ、書いていてわかったけれど視点の切り取りとか、価値観、美学、そういったものが流れるように読み流す軽さのなかから浮かびあがるようなものが好きなのだ。

 これは夏目漱石とか意外とこっち側だと思う。かつては物語の面白さ故の大衆作家と思い込んでいたのだが、大人になって読み返すと全然違う。後者に分類されると自分などは感じた。コレットやアーウィン・ショーなど、日本では森瑤子さんが該当する。もちろん後者分類の作家群も、作中に物語はれっきとして存在しているし至高の出来だったりするのだが、どちらかといえばその作家が当てた視点、切り取った世界観により魅力を感じるものが多い。

 コレットとか森さんなぞは、モチーフがセクシュアルなことであったとしてもいやらしくなく非常に繊細だ。その時代の極彩色を切り取っているのになぜか哀しい。きっと鮮烈な光は瞬間にしか生きないから、そこを切り取るということは刹那の美にフォーカスしているということなのかもしれない。ちなみに、エリザベス・マクニールという人が書き、映画にもなった有名な『ナインハーフ』、この小説版はきわめて白眉だ。さらさらと流れる文体が内容の特殊さに不釣り合いと言えるほど淡泊なのだが、とにかく美しい文章。映画も光と影の映像美に定評のあるエイドリアン・ラインが監督を務め、スタイリッシュな作品であるが、小説はまた別の世界観でよい。

 物語の力を求めず何か書きたいのであれば、もう書いてるじゃん、と自分に突っ込めるのだが違うのだ。物語力でなく構成はしたい。意図をもって展開していく文章と、ただ散文に書き散らすものは違うから。

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