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美しくビターなファンタジー

 今週も最高に仕事しまくってもぎとった週末、土曜日にとことん惰眠を貪ると決めていたのに燦燦と輝くおひさまに、ついアクティブな気持ちが芽生えてしまった。映画「哀れなるものたち」の最終回(と言っても18:30からと早め)のチケットを予約し、つらつらとネットニュースなど斜め読みしていたら眠気の波がやってきた。それなので、外出のための目覚ましアラームをセットして意気揚々と昼寝を決め込んだ。

 眠り足りておのず目覚めると、なんと17時であった。16:30には起きてダラダラしたくをするはずだったのに。何年かに1度あるかないかほどの速さで仕度をし、30分で家を出た。その時点でまだ、「映画なんて行かなくてよかったのに。もっと眠りたかった」と後ろ髪をひかれている。
 これはいつものことで、土曜の最終回に映画のチケットをネットでとってから数時間の間に気持ちが変わり、外出がこのうえなくつらくなるんだけど、たいていはエイヤと体を起こして現地に赴けばまず、後悔はしない。今日も同様、とても良い土曜日になった。

◇◇◇ ※映画「哀れなるものたち」について以下触れています

 実はストーリーについてはまったく予備知識ゼロで鑑賞した「哀れなるものたち」。人気だったみたいで席もほとんど残っておらず、前から2番目という見にくい席しかなかった。久しぶりに映画らしい良い映画を観たな、という感慨を味わいながら鑑賞していた。

 成熟した大人の女性の体に無垢な子どもの精神を同居させる主人公ベラはクリーチャーといってよい。安全に守られた創造主ゴッドの邸宅で暮らす間の映像はモノクロームだ。ゴシックを演出したいのかと当初思っていたがそうではなかった。彼女が自らの意思で外の世界に冒険へ出てから映像はフルカラーの世界に。これ、「生活が色つきになる」実感を持つ・持ったことって誰にでも1度や2度あるものだと思う。

 私が最初にそれを全身で感じたのは、大学生のころにした恋だ。突然に生活がフルカラーになったようにみずみずしく輝き、公園の木々が発光しているかのようにビビッドになり、月の光の下で漂うきんもくせいの甘い香りに泣きたくなった。まるでそんなような、ベラが一人の人間として世界を識っていく過程は美しい色にあふれている。そしてその光景の多くがなぜか「作り物」っぽくて、それがファンタジーとしての物語を押し出している。

 ベラが人間として、女性として体験から学び、知識を体験によって知恵としていくなかで、重要なファクターとして存在するのが「性」だった。演じたエマ・ストーンが言うように、女の子、女性の成長に大きく関わるものであるからだ。成長って、前向きな因子だけではない。何をもって失敗とするかは自分だけのものだけれど、苦い失敗をいくつもすることもあると思う。私においてはとりわけそうだった。性の体験から人間として成長していくにあたり、遠い昔のことであるのにふりかえるといまだほのかにビターな感傷を伴う。ベラにとって「性」は恥ずべきものでなく、むしろ彼女は完璧に責任を自分で負っていた。すごいことだと思う。

◇◇◇
 この映画はエマのファッションも見どころだと思う。大きくふんだんな袖パフスリーブ、冒頭のあまりに美しいミッドナイト・ブルーのドレスにはカブトガニの甲羅のような袖。かと思うと終盤、彼女の出自に関わる婚家に戻ったときに身に着けていた軍服のようなドレス。

 映画を観終わっても21時だったものだから、3日分の新聞をかばんから出して食事しながら読んだ。

 人生の味わいは、自分の場合ほとんどがビターにコーティングされているスイートなもののように思える。そして、傷みはすべて悪ではなく、胸の傷みを味わえる人間になっていることが成長というか、生きることなんだろうなと思った。そんな土曜日。

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