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比喩「いまはすべて所有している」

 自分の内的に動きがないとき、私に現れるパターンがいくつかあるぞ、と気づく。まず新しい本を買わなくなる髪のカットを先延ばしにする。そして、音楽を聴けなくなる。この3つは、振り返ってみても社会人になって以降、内的に仮死状態とまでいかなくても強制的に凪ぎに入らざるを得ないとき、陥ってきたパターンだと思える。

 まず、「新しい本を買わなくなる」ことについてだが、もともと最新のベストセラーなどよりも趣味に走って選ぶタイプではあるが、それでもめっきり買わなくなる。けれど病的な活字中毒なのでどうするか?と言うと、本棚から過去に買った本を読み直していくのだ。昔は買った本は人生の財産とばかりため込んでいたが、いつしかだいぶ整理をしてしまい数自体とても少ない。また、私の読み方もちょっとおかしいのだが、毎晩入浴時に10分ほどは必ず書籍をバスルームに持ち込むのだが、毎日毎日同じ本になる。なんだかその本との相性が良い時節というのがあって、何度も何度も読める。適当に開いたページから10分ほど、おんなじ本をずーっと読み続ける。
 ちなみに今は、幾たびかのマイブームでドラッカーに耽溺している。

 次に「髪のカットを先延ばしにする」こと。
いやーこれ、本当に顕著で。ショートヘアなうえ、毛量が多くしかも伸びるのが早い(複数の美容師さんの弁)ので、調子がいいときは1ヶ月に1回サロンに行っているが、前回行ったのいつだったろう…という感じになる。
 当然見苦しく、鏡を見ても軽く嫌悪とため息など漏らす始末であるが、その苦痛をもってしても、サロンに行こうというマインドにならない。
 そうか、これはかなり心が閉じているんだな。

 そして「音楽が聴けなくなる」こと。これが自分ではもっともわかりやすく自己の状態に気づくヒントになるのだが、理由はわからない。歌詞のある音楽は絶対に無理となり、ピアノ音だけならなんとか、を経て最終的に一切を受け付けられなくなってしまう。
 一番最初にこのことに直面したのは20代の終わりで、おそらく人生でもっとも混沌のなかに居た。今と違って対処法がわからなかった故に自分史上、最悪にダークサイドに落ちた、文字どおり暗黒時代だ。音楽どころか音が神経に直に触れてくるようでひりひりとつらいものだった。

 ところが、あるとき偶然耳にしたベートーヴェンだけが違った。テレビだったのだろうか、聴くともなしに聞こえてきたその旋律に衝撃を受け、自分の奥深いところで何かが小さな爆発を起こした。すぐにCDを買い求めると、今度はこわいくらいベートーヴェンのみに耽溺していった。ただ、ベートーヴェンにはその力があるということは、あれから何年も時が経って理解している。

 残念ながら、いまの自分は進んでベートーヴェンすら求めない。あの頃偶発的な出逢いで救われたが、「いまはもうすべて所有している(比喩)」なかから行動を選ぶということは、意思の力が要る。意思を発動できるということ自体が、心の健康度合いは高いといっていい。

 こんなことを書くと相当つらい状況なのかな、などとなってしまいそうであるが、そうでもないのだ。これもまた、「いまはもうすべて所有している(比喩)」故にある種コントロールできてしまうからだ。この場合は、経験と経験がもたらした内的嵐の乗り越え方が「所有」つまり、経験値として自己に蓄積されているという意味になるかもしれない。

 書きながら読み直してみて、何かひとつでも言い切れる真実があるかしら?と改めて心に問うてみたら、「自分がイキイキと輝いて仕事をしていたときと比較して、今の自分はそうではない」という事実が歴然とあり、それでは「またそのようになりたいか?」と問いを立てるまでもなくそうなりたいのだが、では「そうなるためにはどうしたらよいか?」という問いがくると迷いの森に入ってしまう。
 おそらく「いまはすべて所有している(比喩)」ために、さまざまな想定と選択肢が持てるようになっており、急激な2択を自己に突き付けるほど若くも愚かでもなくなったのだろう。

 と考えると、「いまはすべて所有している(比喩)」は、使い方によって叡智にもなるし、一方でキレのわるい怠惰にもなる可能性があると気づいた。

 


 

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