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震える指先に

年末で自分の契約を終了したスタートアップの会社で共に苦しいときを乗り越えた仲間が、起業してがんばっている。もともと人の和に恵まれた人で…、いや、違うな。もともとなんてことはないか。彼がそうあるように自己を生きてきた結果、人に慕われるようになったのだから。もとい、スタートアップでは1創業メンバーとして社を、社長をもりたて自身の稀有で膨大な人的ネットワークを惜しげもなく貢献してきた彼は、そもそも人の影になる人間ではなかったのかもしれない。

彼が起業して3年目を迎えるが、目に見える形でも大きく成長を遂げた。そして彼自身が経営側で働く傷みを知っていることで、学生時代とまた違い、人的ネットワークをタフなものにしている。彼はわたしにとって愛しい教え子のようなもので、ありがたいことに彼もそういってくれている。最近、彼の得意分野でわたしの知見が足りないことがあるので教えを請うており、たまに顔をみられることがとてもうれしい。

大きな融資も取り付け、社員数も倍増。けれどスマホを触る彼の指が細かく震えているのを見るにつけ、過去の自分を思いだす。人を雇用する重さ、融資を受ける重さ、社会的器の小さな自分が一身にそれを背負いながら、人前では少しもその恐れを出すことはできない。この、引き裂かれた感じが自律神経に影響しないわけはなく、小刻みに震える彼の指を見ると胸が締め付けられるようだった。傷みからではなく、ただひたすらに愛しさのために。

経営哲学を身につけ、かつてと違う見解でわたしに向かってくる。ときにわたしのやり方を批評したりして。頭にきたりはしない。「なんて頼もしくなったことだろう」と感動しながら聴いている。

幾たびも幾夜も話し合った。他の経営陣や主要メンバーと、そして二人ででも。本来の彼の持ち味が完全に失われていく環境で、ひたむきに孤独な闘いをしていた。わたしはそれを、よく導いたのだろうか。彼を結果的に殺したのではないだろうか。そんな問いが実はいまだにある。

ただ、自分がコミットしたことで言えば正しかった。要するに、広報として社の方針に完全にコミットできていた当時なら、あのようにしてきたことに悔いはない。ただ、人間としてどうだろうか。それはずっと消えない問いだろう。そしてそれこそが、組織のために個を犠牲にした引き換えにわたしが負い続けるべき代償であると思う。さかのぼればそんな事例でいっぱいだ。わたし自身が社会に出て、多くの人との出会いのなかで個性をなくした。なくすことでうまく組織に適合できるアンドロイド化していった。

そして、よくできたアンドロイド化は評価される。そうしていつの間にか、たくさんのアンドロイドを量産する手伝いをしてきた。簡単に言うならば人を組織に最適化してきたのだ。この事実に気がついた、というか「やっぱりそれは誤りなのではないか」と思えるようになった今、傷み続け苦しんできた自分自身を慰撫するべきタイミングがきたのだと思う。

過去に戻って個人に詫びることはできないが、冬の朝の凍った水たまりに、真上から硬い石を落としたときにパリーン!!と割れるような顔を、たくさんの人のうえに見てきた。おそらく、その人の何かが傷を負ったタイミングなのだ。そしていつも、それに立ち会うとき、その氷の破片がガラスのように自分の胸に深く刺さる痛みをリアルに感じた。好きで人を傷つけ自己も傷つくことなんてない。組織最適化のために多くの人が傷ついてきた。

働くってそんなつらいもんなのか。つらくないといけないのか。リーダーになるって、マネジメント側に立つって。考えないようにしてきた10数年ほど、考えなければ進むことができたから。けれど最近やっと、この呪縛から解放されつつある。

歓びと穏やかさのなかで成長する道があるはずだし、もはやそういうふうにしか存在したくない。人にもそうしてほしい。

なんてことを、たっぷりと眠り足りて目覚めた朝に思っている。

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