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夏がくる予感がしたら、買うことを決めた

 とうとう我慢ができなくなって日本橋三越にザッハトルテを食べに行った。これは結構、酔狂な行為だと思う。自分の住まいはどこに出るにも便利ではあるが、わざわざケーキひとつのために「あの」日本橋三越に行くというのは、いくらなんでもためらわれた。けどまあ、結局行ったのだ。何故なら比較的時間があったのだし、確定申告の作業で頭が沸きに沸いてしまいものすごくうんざりした気持ちが続いているのを起爆剤によって打ち砕きたい思いもあった。

 生きるうえでなんとなく自分だけが決めてきた規定というのがあるが、この年になるとずいぶんとそれらもやんわりと「ま、どうでもいいことか」と破られていくものだ。百貨店に行くという行為を、自分はハレの行為と決めていて、あまりにも普段着(ジーンズとかスニーカーとか)のままでは行かない、と決めていたけれど、いつかそれも近隣の電車で10分程度の場所ならば可、という緩さになっていた。この緩慢さはなんとなく、人間としての緩慢さに比例しているようで悲しい。

 けれど日本橋三越は違う。そういうふうに行くのは自分のなかでは失礼だと感じる場所だ。何も着飾っていくことはないけれど最低限パンプスを履いた。これは昔、出版社に入社した初日の出来事に起因すると思う。上司が私を日本橋高島屋に連れていき、確かベルルッティだと思ったが、その店舗が眺められる場所に陣取ってこう言った。「靴に何十万もかける人たちが俺たちの本の読者だ。どういう人たちなのかを体で覚えろ」と。20代の終わり、あっぱっぱーな自分にそのとき何一つ体で覚えられたことはないが、格式だとかしきたりだとか、敬意だとかブランドだとか、そういう世界に足を踏み出した最初の体験であったことは確かだった。

 この記事で驚くことに自分は、ザッハトルテのことを書かない。実際に食べて目的をコンプリートはしたのだが、さらっとフロアをなめて「せっかくだから日本橋でも散策するかね…」と1Fまで来て出口を探してうろうろしていると香水売り場があった。モダンなディスプレイに心惹かれ、なんというブランドなのかふと立ち止まった。ここで売り場のスタッフの方にいろいろのお話を聞いたことが今回のメインだ。自分はここでわずかな癒しを体験したと思う。

 ブランドは「フレデリック・マル」の “エディション ドゥ パルファム” といった。朱赤と黒の非常に洗練されたカラーマネジメントで、ボトルもきわめてシンプルでモダンだった。今思い返してみると、この時スタッフの方は「気になったものがあったら言ってくださいね。お試しできますので」などの、よく香水売り場で言われるトークをせずに、「エディション ドゥ パルファム、香りの出版社というイメージのブランドで…」と、その世界観から説明してくれたことが非常に私にフィットした。そうして私の返答の反応に合わせて対話をしていた。そう、トークじゃなくて対話だった。マニュアルの誰にでもこう答える、こう来たらこう返す、ではなく、それは本当に一個人がする対話であったのだ。

 とても興味深く私はすっかり引き込まれた。そのうちに、「何かお好きな香水というのはございますか?」と聞かれ、今自分がつけているものを示したが「けれど日本ではもう廃盤なので海外から取り寄せていて、ご存知かどうか…」と答えた。何しろそれは香水の世界では古いとも言い切れないが、2022年と比較したら充分に昔の作品だったからだ。けれどその方は知っていて、「ええ!知っています!今はもう、ああいった香りはなくなってしまいましたね。…ではこちらなどお好きかもしれませんよ」と言って、その美しいディスプレイの中から一つのボトルを選ぶとムエットに吹きかけ差し出した。

 瞬間、鼻腔を通って脳内に雨があがったばかりのジャングルが浮かぶ。ああ、好きだなと直観的に思った。その感想を伝え、スタッフさんとのセッションは続く。他に好きだったいくつかの香水を伝えると、「ああ、あれは本当にいい香りでした…(なんとそれも廃盤!)。バラの香りは本当にたくさんあるけれど、あのバラは“散りぎわのバラの香り”を表現してつくられたのです。散りぎわのバラ、なんだか印象に残る香りでした」と言ってくれて、すっかり楽しくなってしまう。「あの香りがお好みでしたら、こちらなどはどうでしょう?」と別のブランドのボトルを選ぶとシュッとムエットに吹きかけた。「なんだかとても、ノスタルジックな香りですね」と答えると、「そうなんです。ノスタルジー。どこか懐かしい記憶を呼び覚ます香り立ちですよね」と答えた。

 いくつかを、そのように紹介してくれた後、とりわけ私が気に入ったものの品名をムエットに書いて袋に入れて持たせてくれた。

 私は正直、今のところシグネチャーにしたい香りを2つほどもっているため、今後新たな冒険をする予定はまったくなかった。けれど、日本橋三越でならば、新しい香りを買いたいなと思った。それは先ほど、「雨上がりのジャングル」と私が感じ、スタッフの方が書いてくれた香りの名前を見て驚いたボトルだ。

 「シンセティック・ジャングル」。なんという一致。そして気になって調べてみるとこれを薦めてくれた意味もわかった。それはまるで、自分が愛用している香りの2022年版へと進化を遂げたような作風であったからだ。

鮮やかで豊か、ミステリアスで挑発的な香りが広がる新フレグランスは、まさに鮮やかなテクニカラーのグリーンを思わせます。1970年代に人気を博した香りにオマージュを捧げるこの新フレグランスが表現するのは、自然に対するモダンなビジョン。「シンセティック ジャングル」は、自然からインスピレーションを取り入れながらも、ハイクオリティな合成香料をブレンドするというフレデリック・マルらしいアプローチから生まれました。(https://www.fredericmalle.com/jp)

 夏がくると予感がしたら、買いに行きたい。それはきっとアスファルトから、太陽の微妙な輝きの変化から、風にまじるときめきが色濃くなってきた頃だと思う。

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