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情熱の鮮度

 自己認識として、自分はわりと情熱的な人間だと思っていた。今のいままで。そしてまた、情熱がないと生きていくことが難しいとも感じていた。しかしながら、意外にそうでもなかったのかも?と思ってわずかばかり動揺している。そうしたらふと、「情熱には鮮度がある」ということを思い出し、自分のnoteでは珍しいことにタイトルがまず降りてきた。さあここからどう進めようか。

 結論から言うと、やっぱり情熱的に生きていきたい。これは変わらない。なのに最近自分に対してそれを実感する局面がかなりない。これはどうしたことか。そう考えてみると、情熱には2つ方向があることに気がついた。1つには自分自身が情熱の主体となっている場合と、もうひとつが情熱を捧げる対象がある場合。でもね、こわいことに本当はそんなに、情熱なんか持たずに「ほどほど」である方が、生きることはスムーズに運ぶ、とは思う。

 おそらく自分は最近、「ほどほど」に生きることが巧くなってしまった。それと引き換えにしたのが情熱だったように思う。意識して交換したのではなく、自分を構成するさまざまの要素を分け合っているバロメーターのなかで、ごく当たり前のようにして「情熱」が占めていた割合を他の小さい要素たちが少しずつ奪い合った結果だと思われる。そうして分散された「情熱」は、すっかり存在感を失いなりを潜めた。

 一方で、自分が認識していたあれらさまざまの衝動を生み、生傷を絶やさなかった原動力の正体を「情熱」と呼んで正しかったのだろうか、という新たな疑問がふと頭をよぎった。うんうん、そうよ。そもそももっと、「情熱」を免罪符にして自分に言い訳を許してきた単なる欲望だったのではないの?とも思われたのだ。こうしたい、こうなりたい、あれを手にしなくては、こうあるべきだ、だってこうなのだから。そういったものへ突き動かしてきた原動力を情熱と思い込んでいたフシもあるのかもしれない、と気づいた。

 不思議なもので、日々の生活がドラマに過ぎるときは、こうした「ほどほど」に焦がれ、猛獣使いのように自己を統合して達観を手に入れることで大人になれると信じていた。それが大人だと思っていた。実際にいま、ふと気づいてその境地にいるんじゃ?と思いきや、途端に情熱が鮮度を失ったようで少しおののくだなんて、これは永久に幸福を実感できないタイプとしか言えない。薄く笑う。

 夢中になれること、突っ走れること、信じたことを疑わないこと、こうしたことを情熱というものが動かしていたんでは、と、これまで意識もしなかったことを思い直してみるけれど、なんとも心もとない。本当にそう?
 そしてそもそもが、情熱的な人間だったのかしら、私は(そこまで還って見つめ直している…)。

 このことを考えていて、脳裏に登場なさったのはゲーテ御大だ。さっきから私の頭のなかでゲーテなるものがうるさく囁いている。ゲーテは82歳で没するがその最後の最後まで、『ファウスト』に手を入れ続けて亡くなったという。偉大な芸術家が絶命の瞬間まで過去に顕した自身の作品を未完成として、手を入れ続けるということはよく聞く。以前はこういった現象を「芸術家ゆえ」と観ていたと思う。しかしふと、自身に対して情熱の欠如を思うなかでこれもまた、情熱と言ってよいのかもしれぬ、と思ったわけだ。

 情熱にはきっと鮮度がある。けれど鮮度を越えて普遍なるものとして内に取り込めていくとしたら…?生きることそのものに情熱が内包されていったとしたら、きっとそれは若い頃のように目に見えてわかりやすいイージーな代物とは変わってくるのかもしれない。今日のところまだ、明確な答えを出せていないけれど、とにかくこのところ思うのは、「日々小さいことでいいから、新しいことを何か毎日感じてみよう」ということだ。

 ああ、あれも知っているわ。これもやりました。そんな日常もいいけれど、新しいことがもたらす刺激は、きっと脳に電気信号を送って私を磨いてくれるはずだ。それはもう、研磨のようにハードに。

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