見出し画像

いちばん幸福になるべきひと

 毎月末の土曜日に、おいしいものを母と食べにいく習慣ができた。おおまかな現在の役割分担的に「わたし稼ぐ人」「母家事してくれる人」となっていて、もっぱらごはんを母がつくってくれる毎日は私にとっては最高!でしかないのだが、母としたらたまには人がつくったものを食べたいろうし、なんか楽しみなイベントがあったほうがいいかなーと思ったものだ。

 先々月はやきとり、先月はイタリアン、今月は香港料理へいった。母は「食べたことのない新しい味覚の発見」として喜んでくれたが、私にしてもこの先うんと長く母と健康に過ごせるかといったら時間はやはり限られているだろうから、こうしたことが一つひとつ大切な思い出になる気がしている。

 母という人は本当に家族のためにとなると信じられない愛情を惜しみなく注げる人であり、そのせいで父にずいぶん振り回されて苦労をしたのに恨み言ひとつ口にしない。同居するようになってしみじみとその半生を回顧すると、こんな人って実在するの!?(してるんだがw)というくらいに家族に自分をささげ切った人生であり、改めてその無償の愛の深さに言葉を失う。

 結婚してワンオペで子育てをし、子らが小学校にあがると自宅で英語塾を開いた。月~土、毎晩たくさんの生徒に英語を教えつつ家事も子育ても一人でやりきった。当時の父親たちが家事や子育てを担う・手伝うなんてことはあり得なかったにしろ、我が家はもっと特別だったと思う。マスコミ勤めだった父は1週間いなくなったりするのは当たり前で、当時携帯電話もないからどんなに母は心細かったと思う。

 父が会社員をやめたのは早く、才能もないのに自営業人生をスタートすると、母の稼ぎは時に我が家のもっとも重要な収入源ともなった。父は一攫千金を狙いがちで、まれに信じられない大金を稼ぐが多くの日はほとんどあてにならなかったので、実質母が家計を支えてきたんじゃないか、といまになってうっすら思う。

 やがて、従業員を雇用する程度に育った父の事業が本格的に傾いて一気に倒産へと至ると、自宅も競売にかけていたことから貸家生活に。そのころ私は大学入学を機に一人暮らしをしていたが、母は今度は学習塾のパートを始めた。これが母70歳まで続いたのだ。最初は英語のみであったが、パート先の学習塾で母の指導力が買われ、最終的に高校受験の社会、数学あたりまでカバーするようになった。ただ、本来は英語特化であったため、予習復習に大変苦労していたのを知っている。それでも多感な中学生の子どもたちは、学校でも家でも言えない話をおばあちゃん世代の母には打ち明けるなどしてずいぶんと慕われていた。

 夕方に家を出るまでに一人で家事をすべて終え、放課後になると塾へ車で通う。ずーっと働きづめで家事も一人でやって、いまはあまり詳しく言えないが誰も想像しなかった老後の生活が突然この春はじまった。住み慣れた土地もあとに、私のもとへ急遽転がり込むかたちで。

 毎日家事をして、私以外と関わることなく私の帰るのを待つともなしに待つ母の生活を思う。憐れむことはしたくない。それは失礼だから。

 ただ、私がどんなに心をくだいたとしても、母の傷みは消えないだろうし思い描いた老後とちがってしまった今を癒すことも難しいだろうと思うのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?