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新しい刺激を求める段階

 先週末、2回に分けた夏休み旅行を敢行してきました。本当は前回の日光をいつもどおり2泊したかったのですが、母を旅行に連れ出す計画が合わず、日程を分けて母が出られる範囲の場所にしたのでした。

宿のウエルカムドリンクはお抹茶

 前回母だけでなく自分も感激したおもてなしの宿に再訪し、母は非常に喜んだのですが私はなんだか感動がうすれてしまい、そのことに驚き。結構いつも、気に入ったところやメニューを繰り返す性質で、同じ満足が得られるという事実を大切にするタイプなのに、今回は物足りなくなってしまっていた。新しい刺激による新しい体験、新しい感動をすごく心が求めているんだな、と思った(文末の言い切りをチェンジ)。

近くの河畔公園、散歩に最適

 私はこれはすごくいい兆候だと思った。ひとつには、慣れ親しんでいることからの脱却を求めているんだろうということ、もうひとつにはどんどん新しい体験による刺激を求めているということは、感性がまだイレモノとして余力を持っているんだと思えた。けれどこの旅は母の慰労であるから、彼女が喜んだので問題はない。

母が楽しんだ地酒

 自分は最初、日光市街を好んでいたがやがて奥日光、中禅寺湖あたりをとても好むようになった。あくまで観光客の視点でしかないが、奥日光あたりには自然が豊かであり、自然の移ろいだけはそのとき・その瞬間、そしてそのときの自己の在り様がマッチすることで得られる感動は、常に新しいものであると思う。一方で、その自然が提供する美や感動を受け入れることのできる自己の側が衰えているとそれは物足りない体験になってしまうとも思うのだけど。

 奥日光からたいていバスで移動し、中禅寺湖あたりを歩き回っていると身を切るような冷たい風におののく。どんなに晴れ渡っていようと空気が東京のそれとまったく違うので、いつもよりむき出しの心もとなさを思う。いかに日頃、あたためられた人工的な空気に身を浸しているかということだ。さえぎるもののない風、落ち葉を踏みしめる音と感覚、鼓動の早くなるほどの徒歩による移動。もみの木から風で落ちた小さな枝は、それでももみである不思議。

まだいくらか紅葉も残っていた

 湖の沿岸で指を浸しながら、そよそよと打ち寄せる波の音は海のそれとまったく異なり、穏やかでありながら鴨長明感がある。あれですね、行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず、ってやつ。あれを全身で感じているといきなり悠久にトリップする。

 私はもっと自然に出るべきなんだろうな。

 それを感じた遅い夏休みだった。

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