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異邦人のときめき

 年明け元旦、19:15、地方都市のビジネスホテルに2泊する。仕事ではない。私はいつもホテルを取るのが遅い。仕事をギリギリまでするつもりでいるから、直近にならないと予定を立てられないこともありホテルを予約してはキャンセルを繰り返すことから、いっそギャンブルよろしく直前に空いているところに粛々と泊まるというのがパターンとなっている。ちなみにいつかやってみたい年越しの過ごし方に、高級ホテルで大晦日から元旦を迎える、というのがあるが、この時期の高級ホテルは輪をかけて高級化するので庶民の私にはほとんど永久の夢という感じだ。

 とはいえ、年越しをホテルで、というのは長年の夢であり今回ビジネスホテルであるが本来は実行の予定であった。結局土壇場で面倒になったのと、大晦日はやっぱり自分の家で過ごしたいと気が変わり、こうして元旦から長距離移動してホテルステイをしている次第。私は元来がそういう性質なのか、後天的なのかわからないが、一人で過ごすことがまったく苦でなくさみしいとも感じなかったりする。たとえば年末年始を一人で、さらにはホテルで過ごすなんて聞いたら家族は「こんな悲劇はそうそうない」というほどに大騒ぎするはずだ。自分でもちょっと客観視をしてみて、「どうかしら。私は本当はさみしいのかしら」と心を静かに見つめてみたけれど、結果は「否」であった。孤独という言葉の持つ印象はハードボイルドでダークかもしれないが、使い方によっては異邦人のときめきに似ている。

なにはなくてもお正月用の生花は飾りたい

 新年の夜というのはなかなか興味深い。店が閉まっているしそもそも人出が少ないので街の様相がどこかよそいきである。そんな夜にこうしてPCを広げ、心静かに向き合ってみる。

 昨年の後半に気づいたこと。「あれ、、結構時間がないのかも」ということ。大学を出てずっと駆け抜けるように働いてきて、いつも目の前のミッションを達成することに興奮して生きてきたけれど、もうそういうんじゃいけないんのではないか、と意識することが増えた。そもそも昨年末もキャリアを大きく転換させる計画をもって、実際に実行したのだけれど、それもまだ「この経験を積もう」といったような思いからであった。それとは切実に何かが違う。人によってはそろそろクライマックスに向けて集大成としていくフェーズに入るのではないか。むむ。

私的セレモニーも終えました。

 この年始には、しっかりこうしたことを考えて過ごそうと思っている。「人生100年」とかいったところで、社会も経済もすえおそろしい話しか聞かないなかで、どうやって舵を取っていくか力強く自分で考えなくてはならない。私は高校生のときに英語の勉強でケネディの演説を聴いてから、それが生きる指針になってきた。

 「国家が諸君に何をし得るかではなく、諸君が国家に何をし得るかを問いたまえ」 
というやつだ。

 国家に何を?というのはやや距離のある話かもしれないが、自分はいつもこのスタンスで生きてきた。人生100年という長寿であるだけでなく生涯現役を問われる社会に突入するにあたって、ほんじゃ自分はどうやって生きていこう?どういう人生を、あるいはどう死んでいこう?とおぼろげながら意識をしていこうと思う。

 だって、もう「明日は昨日のつづき」というように漫然と生きていちゃいけない年齢になってきているのだもの…。この事実に直面し、自分がどんな感慨を持っているか?というと、なんと少しワクワクしている。いつだってそうだ、やったことない方に進むときは胸がドキドキしているものだ。

 あけましておめでとう。

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