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三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実

 ショートケーキのいちごをいつ食べるか?最初に?それとも最後?私はいつ食べているかわらかない。最初に食べることもあるだろうし、気づかずどこかで食べていることだってあれば、最後に食べることもある。要するに気分だ。だとすると多分、好きなものだから最後に食べようとか(あるいは最初に)、そういう志向がないのだ。ところがこれが、映画になるとしょっちゅうあって、「うわ、これ絶対好みだから観たい」と思い定めた作品は観てしまうと楽しみやワクワクが終わってしまうみたいでなんとなく回避する。無論、上映期間の決まっている現在公開している作品をのぞく。
(画像出典:https://gaga.ne.jp/mishimatodai/

 「三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実」がまさにそれで、当時毎晩のようになんとなくチャンネルを合わせていたTBSの夜遅くのニュース番組で、緑山スタジオに眠っていたフィルムが発掘され一遍の映画にまとめたとの放送があった。映画公開が2020年なので、そのときも2020年だったんだろう。これが非常に面白く、全共闘随一の論客と言われていたとされる演劇人の芥 正彦という方と三島のバトルのような議論がとにかく刺激的である種ショックを受けた。映画になるのか、これはぜひとも見ようと決めた。そしてあれから4年が経ったいま、やっと観たのだった。

 鑑賞は息もつかせぬ緊迫感と、脳みそがだらだらとよだれを垂らすかのごとく刺激的に過ぎた。集中している状態が張り詰めた弦のごとく。議論そのものの内容については自分の筆力が及ばないので感想すら書きたくないのだが、なにしろショックを受けたのは、いまの自分がどれほど怠けて堕落しているかという事実から逃げられないと思ったことだ。目をそらして生きてきたが、真正面から突き付けられた。私は、求め、学ぶという行為からかくも逃避していたのか、と。

 知識も知性も磨かねば錆びてゆくだけなのだ。いったい「仕事が忙しい」という名目でどれほどの時を浪費してきただろうと思うとめまいがする思い。三島は、超知性の集団1000人を前に、彼らから繰り出される問いや意見をメモをとることなくすべて脳に取り込んだうえで、見事に起承転結のある論理で打ち返していく。持論に引き込んでけむに巻いたりしなかった。その、あふれるばかりの知識の泉からまさしく論理的に話される回答はすべて、新たな知識世界の扉を開いてゆくようで非常に心地よかった。

 芥さんという方の、いま現在のお姿もインタビューとして映し出されるが、たった一人、いまでも衰えることのないなんと眼光の鋭きことよ。非常に観念的な世界観をお持ちなのだが、その観念の世界に真剣に没入して生きてこられたことで唯一無二の豊穣さがある。三島がこのかたとの議論でたじろぐ場面もあったが、非常に興味深い議論だった。

 自分というものを語るには、自己が存在する世界をどう見るか?という点が欠かせない。そこで初めて自己と世界の間を渡す橋ができ、目にするもの聞こえるもの、手触りや温度に対して名を与えられるからだ。

 それなのに私が自己を語れなくなって久しい。なぜなら自己が存在する世界を定義することから逃げて数十年が経つからだ。鈍化していく感性、さび付いていく知性、体力が落ちていくのはもちろんのことだ。この映画を観て、もっと本質を希求していくことをあきらめてはいけないと強く思った。これではまだ10代の頃の方が賢かったのではないかとうなだれるばかりだ。


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