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【展覧会小説】オトガキエタ

 朝起きてカーテンを開けると一面の銀世界だった。時計を見るとまだ7時だ。
 「もったいない…」
 せっかくの土曜日、昼まで寝ていたかった俺の気持ちとは裏腹に、あまりの寒さに体はしっかり起きてしまった。再び窓の外を見る。雪は深々と降り続いている。恐らく今日一日止むことはなさそうだ。マンションの向かいにある公園では、子供二人と大人が一人、おそらく兄弟とその親だろう、3人で雪合戦をして遊んでいる。しかし雪のせいで、いつもは公園から聞こえる遊び声も通りを走る車の音もすっかり聞こえない。
 「さぶっ」
 しばらく降り積もった雪に見惚れてしまって、暖房を入れるのをすっかり忘れてしまった。慌てて暖房を入れて、コーヒーを淹れるために電気ポットのスイッチを入れた。
 「さて、何しようか…」
 昼まで寝ているつもりだった位だから、今日の予定は何もない。一週間分の洗濯と部屋の掃除でもできれば大したもんだと思っていたが、この天気だと洗濯物も干せないし、掃除の間に窓を開ける気にもなれない。
 しばらく考えていて、そういえばコーヒーを淹れるためにお湯を沸かしていたことを思い出した。台所に行くと既にお湯が沸き終わっていた。それほど何かに集中していたわけでもないのに、湯が沸いたことを知らせる音が聞こえなかったようだ。
 とりあえずコーヒーを飲みながらテレビでも見ようとスイッチを入れた。その時ようやく気付いた。

「音がしない・・・」

**********

 やけに静かだと思っていたが違っていた。「音がない」のだ。いきなり耳が聞こえなくなるものなのか。テレビで異変に気付いた時、最初はテレビが消音になっていたのかと思ってリモコンで音量の+ボタンを押した。しかし音量の数値のスタートは13を表示し、それはいつもの音量だった。そしてどれほど数値が大きくなろうとも、テレビからは何の音もしなかった。画面に映る情報番組では、右上に「東京 観測史上最大の積雪」のテロップが表示され、渋谷のスクランブル交差点で中継を行うリポーターとスタジオの司会者は嬉々として何かを喋っている。何の音もしない中で、興奮した様子の彼らは、どこか遠くの存在に感じられた。
 耳が聞こえなくなった。その事実がどうしても受け入れられない。昨日まで何一つ不調もなく違和感すらなかったのに、朝起きて突然聞こえなくなるものなのか…。病院に行くべきか。しかし今日は土曜だし、この天気だ。耳鼻科が開いているかどうか確かめるため電話をしようと思って、耳鼻科の番号をスマホで検索しかけたところで諦めた。電話の発信音が聞こえないし、つながったとして相手の声が聞こえるとは思えなかった。

**********

 とりあえず耳鼻科に行くために外に出た。開いていれば診察を受けられるし、そうでなければ気晴らしの散歩をしよう。表に出てしばらく歩いて、いよいよ自分の身に起きた異変を確信した。数は少ないが車が走っているのに何一つ聞こえない。歩行者用信号機から流れるメロディーも聞こえない。静寂に包まれた世界は、なぜだか一層寒く感じられた。
 5分ほど歩いて一番最寄りの耳鼻科に着いたが、開いてはいなかった。そんなものだろうとは思っていたものの、やはり心の底では落胆した。開いてなければ散歩でもしようと思っていたが、そんな気分にはなれず、やるせないまま近くのガードレールの雪を払って、そこに腰を下ろした。通りを走る車や信号の移り変わり、時々通る通行人をぼんやり眺めていた。なぜだかわからないが一人だけ突然音のない世界に放り込まれた。世界から隔離された気分になり、目の前の光景さえどこか遠くのことのように思えた。
 どの位経っただろう。次第に真っ白な雪景色の中で、信号の色はやけに鮮やかに見えてきた。ビルから突き出た各フロアの店舗を示す看板は、降り頻る雪の中で、店名やロゴは見えづらくなり、ピンク、黄色、紫、赤…とカラフルな色彩の面の連なりでしかなくなっていった。雪は”意味”を覆い、反比例するように鮮烈な”色”が目に入るようになってきた。この街に住んでもう6年は経つ。その中で何百、何千回とこの通りを通っていたが、初めての感覚だった。いかに自分が普段「街並み」という一単語で括っていたを思い知らされた。「街並み」というものがある訳ではないのだ。道路、信号、看板、店、窓、庇、商品、チラシ、店員、通行人……数多ある個別の”色”が集まっているのだ。言ってしまえば当たり前のことだが、その当たり前がやけに鮮烈なことのように思えた。

「何を眺めているの?」

 俺は驚いて振り返った。そこには緑色のコートに茶色のグローブをつけ、薄い黄色の帽子を被った女性が、路肩に停まった車に肘をつきながら立っていた。

「ねぇ、さっきからずっと何を見ていたの?」
 
 見たことのないくっきりとした顔立ちで、東京とはいえ住宅街でファミリー層が多いこの街には相応しくない美人だ。降り頻る雪の中で白い肌に真っ赤な口紅が印象的だった。しかも足元はストッキングにパンプスだ。いくらファッションは我慢とはいえ、さすがに寒すぎるのではないか。いや、街に合わない美人度合いや雪の日に出歩く格好ではないことはどうでもいい。彼女の声が聞こえたのだ。

「何で聞こえるの?」

 俺は思わずそう尋ねてしまった。今度は逆に彼女の方が驚いた顔をした。俺は聴覚が戻ったのかと思って思わず通りを見た。しかし、相変わらず走る車の音や信号機、数人の歩く人の足音などは一切聞こえてこなかった。俺は困惑しながら再び女性を見て、今朝からの出来事を話した。

「朝起きてテレビをつけたら何一つ聞こえなかったんだ。耳が突然聞こえなくなって、耳鼻科に来てみたんだけど、まぁこの通りやってないよね。どうしようもないからとりあえずここでずっとぼんやりしてたんだけど…なんでだろう?君の声は聞こえる。」

「そう、それはお気の毒ね。それで、聞こえなくて何か問題でもあるの?」

「えっ?そりゃ、このまま聞こえないとなると仕事だってできないし、治療とか…治療できるのかどうかわからないけど……聞こえないことは不便じゃないか。」

「不便なだけなら問題ないじゃない。」

俺は彼女の言葉が理解できず、聞き返すことすら忘れてしまった。

「不便かどうかなんて慣れるかどうかでしょう。世界が醜く歪んだとでも言うなら可哀そうだけど。」

「……そうか。そういうものなのかもしれないな。幸い世界はきれいだよ。雪のせいなのか、聞こえないからなのか。今日はやけにきれいに見えるよ。」

「そう。じゃあそのきれいな世界をどうぞ楽しんでね。」

彼女はそう言って左手をヒラヒラさせて去って行った。追いかけて彼女に色々聞いてみたい気もしたが、そうしたところで彼女が受け入れてくれそうな気はしなかったし、それ以上に彼女の最後の言葉を実行することの方が大切に思われた。

「きれいな世界をどうぞ楽しんで」

どうせ病院は月曜まで休みだ。聞こえない不便さに悩んだり悲しみに打ちひしがれるのはそれからでも遅くはないだろう。雪が”意味”を消す。聞こえない事の”意味”に今日は捉われず、ただ目の前に浮かび上がる”色”を眺めていたい。自分の住んでいた世界は、これほど鮮やかなものだったんだ。

***********

 渋谷に来たのは8年ぶりぐらいかもしれない。学生の時に飲み会で来るくらいで社会人になってからはほとんど来なくなった。そんな疎遠の街に来たのは、「永遠のソール・ライター展」という展覧会が気になったからだ。写真に詳しいわけではないが、会社の同僚から面白いと聞いていたのだ。
 不思議なことに、耳は結局月曜の朝には全く元に戻っていた。まるで雪が止むにつれて聞こえるようになったみたいだった。念のため月曜に耳鼻科に行ったが、その時点では聞こえてしまっているし、週末の状況を説明しても説明している本人が要領を得ないのだから明瞭な答えは出ずはずもなく、また次同じような症状が出たら来るようにと言われて終わった。
 ニューヨークの街や人々を写したライターの写真は、スナップショットのようでいて、まるでファッション雑誌の一部のような洗練された印象を受けた。そして何より、俺はこの光景を知っている。そう思った。ニューヨークに行ったこともないし、知っているというのは”場所”という事ではない。ライターが撮ろうとしてる”世界”だ。そう、耳が聞こえなくなったあの雪の日、驚くほど街が鮮やかに見えた時、この街が、自分の住んでいる世界が、別物のように思える程きれいだった。”意味”が消え、”色”が浮かび上がったあの光景が蘇ってきた。そして俺は一枚の写真の前で立ち止った。

 そこには緑色のコートに茶色のグローブをつけ、薄い黄色の帽子を被った女性が、路肩に停まった車に肘をつきながら立っていた。

「あぁ、君はここにいたのか。」

不思議と驚きはしなかった。何だかそうであることを知っていたような気がした。俺は心の中で彼女に話しかけた。

「君のいる世界もきれいだよ。」

「そう。じゃあそのきれいな世界をどうぞ楽しんでね。」

彼女はそう言っているようにも思えたが左手をヒラヒラさせることはなく、俺はその写真の前から去って行った。

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この小説はBunkamuraザ・ミュージアムで開催中の「永遠のソール・ライター」展に着想を得て書いたオリジナル小説です。展覧会のレビューはこちらの記事をご覧ください(レビューも読んでいただけると嬉しいです)。

https://note.com/ja9chu/n/n18135bfcd98f

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