とある「怪異」に魅了されたオタクのはなし
この記事を開いてくれたそこのあなたは、「怪異」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
「トイレの花子さん」?
「口裂け女」?
それとも「八尺様」?
どれも有名な怪異たちだと思う。
もちろん、これ以外にみなさんの「推し怪異」を思い浮かべている場合もあるだろう。
今回語る怪異は、これらと遜色ない有名なものであり、ひとりのオタクを昔から魅了して離さない怖ろしくも素敵な話。
そんなわたしの「推し怪異」についてだ。
あらかじめ謝罪をしておくが、わたしは決してこの手の怪談の専門家ではない。
あくまでもライトなオタクの視点でものを語るので、考え方が甘い部分などは大目に見てやってほしい。
「推し怪異」とそれに関連した怪異の話
わたしの心を掴んで離さない「推し怪異」。
それが「メリーさんの電話」だ。
名前のとおり電話にまつわる怪異であり、電話を媒介として登場する怪異の中ではもっともポピュラーな怪異ではなかろうか。
このほかにも電話に関連する怪異・都市伝説は数多く存在している。
たとえば、ネットで広まった都市伝説である「怪人アンサー」。
これは、とある方法で呼び出す怪異なのだが、怪人アンサーに繋がった人は、彼に対してどんなことを質問しても回答してくれるというものだ。
こういった怪談の定番として、怪異に遭遇した人がとんでもない目に遭うオチが用意されている。
この怪人の場合は、最後に彼から質問を投げかけてくる。
それに答えられないと、怪人アンサーがやってきて身体の一部を引きちぎられてしまうというものだ。
「怪人アンサー」と似たような話に「さとるくん」というものがある。
こちらもオチはおおむね一緒だ。
さて、それでは「メリーさんの電話」のオチはご存じだろうか。
実は、この怪異、オチと呼べるものは原典には存在していない。
もし、あなたが「え、メリーさんの電話のオチは〇〇される、でしょ?」と思ったのなら、それが間違った知識というわけではない。
なぜこんなややこしい書き方をしているのか、それを掘り下げてみよう。
「メリーさんの電話」ってどういう話?
それでは、「メリーさんの電話」という怪異を少し詳しく見ていこう。
この怪異、実は原典と思われる話においては、オチが非常に弱い……というか無いに等しいという特徴がある。
この話のあらすじとしてはこうだ。
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ある日、引っ越しをきっかけに大事にしていた西洋人形の「メリー」を捨ててしまった少女のもとに電話がかかってくる。
その電話を取ると、「わたし、メリー。今●●にいるの」という返答がある。
その後も何度も「メリー」を名乗る人物からの電話はかかってきて、その度に「メリー」が電話をかけてきている位置は自分の家に近づいてくる。
「わたし、メリー。今、あなたの家の玄関にいるの」
ついに「メリー」が自分の家まで侵入してくる。
そして、次の電話を取ると、「わたし、メリー。今あなたの後ろにいるの」
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これが「メリーさんの電話」の原典と思われる話のあらすじだ。
怪談として見るとややインパクトに欠けるオチなのだが、この部分こそがわたしがこの怪談を愛してやまない理由でもある。
ひとつは、その後の想像が無限に広がるから。
振り向いたらどうなるのか、あなたは何を想像しただろう。
それがそのままこの怪異のオチになり得るのだ。
そしてもうひとつが、オチを明確にせず想像によって恐怖を掻き立てる手法が、なんとも日本らしいホラーだと感じるから。
「メリーさん」が日本的ホラーといえる根拠
この話のなんとも言えないオチについて掘り下げる前に、日本的なホラーとは何かを考えてみよう。
日本のホラーといえば、映画・小説でいえば『リング』や『仄暗い水の底から』、『着信アリ』など、ゲームでいえば、『零シリーズ』などが、和風ホラーとしては代表的な作品ではないだろうか。
他にも有名かつ名作と呼べる作品は存在するが、敢えてこの4作品に絞ったのはこれらすべてに共通点が存在するからだ。
これらの作品に共通するのは、恐怖の対象が目に見えるものではなく、じわじわと忍び寄ってくる「何か」が恐怖の対象である点だ。
この、「正体の分からない何か」が怪異であるという点において、「メリーさんの電話」にも同じことが言える。
この物語の主人公となる少女は、電話の相手である「メリー」を「自分が捨てた人形のメリー」であると認識しているが、果たしてそれは真実なのだろうか。
この話においては、電話という話をしている相手の顔が見えないというツールが上手く作用していると思われるが、そのせいもあって、背後に立つ「メリー」を「たぶんメリーだと思われる何か」としか確定させられない。
「メリー」が人形であるというのは、電話の受け手である少女の記憶から補われているに過ぎないが、それが背後に立っているのかといえば不明なのだ。
「メリーさん」といえば人形の怪異である。
これは多くの人が認識していることだと思うが、原典に立ち返ってみると、オチの不明瞭さのためにこの怪異が人形であると確定できなくなっているのは面白いと思わないだろうか。
こうしてみると、「恐怖を抱くものの正体が不明瞭である」という、我々に馴染みのある日本的ホラーであると思えてくるのだ。
人形の怪異として見る「メリーさん」
とはいえ、やはり「メリーさん」は電話の怪異であると同時に人形の怪異であることは間違いないだろう。
なにより、これだけ「人形ではないかもしれない」という話をしておきながら、わたし自身は「メリーさん」を人形の怪異として認識している。
この考えの根拠としては、この怪異の元ネタを辿ってみると想像がしやすい。
代表的な元ネタとして挙げられるのが、50年ほど昔に誕生し、現在でも実際にかけることができる「リカちゃん電話」だろう。
女児用玩具の「リカちゃん人形」と実際におしゃべりができるサービスとしてスタートし、現在まで続いているこの「リカちゃん電話」のサービスだが、まったく同じタイトルで語られる怪談も存在している。
内容は、「メリーさんの電話」とまったく同じもので、徐々に近づいてきて最後には少女の背後に立ったリカちゃん人形が語りかけてくるというものだ。
人形から電話がかかってくるか、自分が人形に電話をかけるかという違いはあるものの、そのオチはまったく変わりない。
※怪異としての「リカちゃん電話」をメリーさんの亜種とする場合が多いように思われるが、やはり「メリーさんの電話」の成り立ちに「人形と電話をする」という何かが存在すると考えられるので、ここでは元ネタとして紹介させていただいた。
そして、もうひとつ元ネタとして考えられるのが、「捨てても戻ってくる人形の怪異」である。
この怪異において、戻ってくるのは年季の入った日本人形であるケースが多いだろう。
もちろん海外にも似た怪談は存在するが、「捨てても戻ってくる」と聞いて日本人形を想像しないだろうか?
こうした人形は、これまでの所有者の誰かの愛情を受けたために魂が宿ったとされている。
日本人形は、祖母から母へ、そして母から娘へと、代を跨いで大切に扱われることも多い。
その過程で多くの愛情や思念を受け、縁が強く結ばれた人形であれば、その持ち主のもとへ帰ってくるのも当然だと言える。
「メリーさんの電話」における「メリーさん」も、少女に大切に扱われていた(=愛情を注がれていた)が、やむにやまれぬ事情のために手放されてしまったという経緯がある。
日本における「捨てても戻ってくる人形」の怪談に登場する日本人形とまったく同じだ。
これに電話の流れを合わせれば、「メリーさんの電話」という怪異の完成だ。
つまり、「メリーさんの電話」という怪異は、目に見えない何かを相手にする「電話の怪異」と、愛情を注がれた末に捨てられても戻ってくる「人形の怪異」というふたつの側面を併せ持つ怪異なのだ。
この話のオチが不明瞭であることもあわせて、わたしはこの怪異を日本らしい怪異であると感じている。
「オチ」という無限の可能性
この怪談は、メリーさんらしき何かが背後から声をかけるというところで終わるのが原典のオチなのだが、決してオチらしいオチが存在しないわけではない。
こうした話は、広まるにつれて尾ヒレがつくものだ。
「メリーさんの電話」も、多くの人に伝わる中でいくらかの派生が生まれていくことになる。
たとえば、振り向いてしまった少女が、かつて大切にしていた人形に刺し殺されてしまう、あるいは大怪我を負うというオチ。
たとえば、振り向いた先にいた人形がそのまま少女をすり抜けてどこかへ行ってしまうというオチ。
また、ネットの掲示板などで生まれた派生の話として、「対象の家まで辿りつけない」といったポンコツさを見せるオチや、そこから続く二次創作的なストーリーまで存在する。
オタクにかかれば、振り向けば殺されてしまうかもしれない「メリーさん」という怪異も、一気にポンコツな萌えキャラになってしまうわけだ。
最後の「ポンコツメリーさん」は置いておき、その他のオチについては、より直接的な恐怖を描いたものが多い。
そのため、オチが不明瞭で余韻の恐怖を味わえる原典に比べ、起承転結の型にはまった創作怪談としての側面が強くなってしまっているのだが、口から口へと伝わる都市伝説としては、こうした形態の変化は自然の流れなのかもしれない。
きっと、これからも「メリーさん」は多くの人の手によって、かわいくも怖ろしくも、いくらでも変わっていくのだろう。
これから、わたしが愛するこの怪異がどのように変化していくのかが楽しみである。
とある怪異に憧れたオタクの話
ここまで敢えて小難しく文章を書いてみたが、文体も粗く読みにくかったのではないだろうか……本当に申し訳ない。
最後に、わたしがこの怪異に抱くやや歪んだ愛情を語りたいと思う。
「怪異とは想像の産物であり、実在しないものである」
いや、当然のことなのだが、その一方で「存在した方が夢があるじゃないか」と考える自分が常にいる。
だって、その方が楽しいじゃない。
それを前提に読んでほしい。
わたしの中のイメージとして、「捨てても戻ってくる人形」の怪異はようするにヤンデレなのだ。
抱えきれないほどの愛情を受けて大事にされた末に、捨てられてしまった人形は、やはり大切にしてくれた主人のもとに帰りたいに決まっているではないか。
その中で、自分という存在が主人にとって不要なのかもしれない。
あるいは、新たな愛情を注ぐ対象を見つけて自分が不要になったのかもしれない。
そう思って当然ではないか。
物語の変化に伴って、主人である女の子を殺してしまったのかもしれない。
でも、衝動に任せて主人の命を奪ってしまったメリーさんは、その後どうしていくのだろうか。
オタクの性なのか分からないが、こうした「物語の終わりの続き」を想像することが楽しくてしかたがない。
もしかしたら自分を愛してくれる新たな主人を探す旅に出ているのかもしれない。
もしそうなら、いつかわたしのもとへ怨念を抱いた人形「メリーさん」が現れる日も来るのではないだろうか。
あるいは、オタクたちに日々創作されているような、かわいらしくて愛らしい、素敵なメリーさんがこの世には存在しているのかもしれない。
わたしは怪異が好きだ。
もちろん99.99%創作であることは承知のうえだ。
それでも、0.01%でも、0.000001%だったとしても、現実のすぐ隣に存在するかもしれない夢を見た方が楽しいに決まっている。
だからわたしは「メリーさん」を愛し、憧れ、夢見る。
もし、自分に「推し怪異」がいる方は、そんな妄想をしてみてはいかがだろう。
少しだけ、現実が楽しくなるかもしれない。
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