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東京のわさび 2大産地の復活運動は今

三鷹のわさびと、奥多摩のわさび

 わさびの歴史を資料をもとに辿ってきたが、実際のわさび栽培はどのようの行われているのだろうか。
 今回は、東京の2つの生産地を訪ねた体験談を記しておきたい。ひとつは、三鷹市が復活に尽力している大沢わさび。もうひとつは、JR武蔵五日市駅からさらに奥に入った檜原村のわさび田復活プロジェクト。東京のわさびと言いながら、この2つは栽培方法も、わさびの種も全く異なっている。


クローン技術で復活なるか、三鷹の大沢わさび

 三鷹市はスポーツと部下部生涯学習課が大沢わさびの復活に取り組んでいる。三鷹市を流れる野川沿いの大沢の里では昭和の時代までわさびの栽培がさかんに行われていた。そこで栽培されていた種はかつて三重県の伊勢から移植されたものだが、いまではこの地にかろうじて棲息する貴重な種で、大沢にキャンパスを構える国際基督教大学の協力のもと、クローン技術(細胞培養)を使って復活を図ろうとしている。

三鷹の大沢わさびはまだ小さくて儚げだ
奥多摩のわさびは出荷出来そうなほど大きく育っている

 写真は2022年7月23日に三鷹市で開催された「わさびサミット2022 食文化「わさび食」保存の取り組み報告会」に展示されていた三鷹の大沢わさびと、奥多摩のわさび。見くらべると奥多摩のわさびは大きく堂々としていて、それにくらべると大沢わさびは小さくて儚げだ。
 栽培年数の違いもあるのだろうが、長年の株分けで種そのものが弱まっているとも聞いている。そこで、先に挙げたような、クローン技術の導入という話になってくる訳であります。

昭和初期まで盛んだった大沢わさびの栽培状況

 2023年5月27日、「三鷹大沢わさび 植付とダイドツアー」に参加してきました。
 会場の大沢の里公園には、わさびを栽培、販売していた箕輪家の母屋が整備、保存されています。まずは、こちらの見学から。

明治35(1902)年に建てられ、昭和55(1980)年頃まで使われたいたという
わさび栽培に関する充実した展示がある
箕輪山葵店の半纏と昭和8年の台帳
手拭いもかっこいい
母屋の裏手はすぐにわさび田が広がっている

 大沢地区でわさびの栽培が始まったのは江戸も後期になってから。伊勢から江戸に剣術指南に来ていた小林政右衛門が箕輪家の娘と恋に落ちて婿入りすることに。折しも江戸は握りずしの大ブーム(第2回 元祖握りずし 両国に華屋与兵衛の跡を訪ねる 参照のこと。)また、湧き水が豊富なことに驚いて、故郷の五十鈴川のほとりにわさびが自制していたことから苗を取り寄せて、湧き水の豊かなこの地でわさび田を始めたと伝わっている。
 この地は国分崖線といわれる崖の下にあたり、安定した水温の水が豊富に湧きだし、日陰にもなって、わさびの栽培に適していた。
 栽培が始まった時期について、このイベントを報じた記事で、読売新聞は「文政年間(1818~30年)」としており、東京新聞は「文政二(一八一九)年」としていて、東京新聞の記述はやや疑問が残る。今の形の握りずしを考案した華屋与兵衞が25歳で両国に店を出すのは文政7年(1824年)。食を転々としながら握りずしを考案したと伝わるので店を構える前に握りずしが話題になっていたとは思うが、5年も前からというのは、ちょっと早すぎるのではないだろうか。日本わさび協会の記事も文政2年説を取っている。婚姻の時期などと取り違えの可能性もあるのではないだろうか。

わさび田から母屋を見る
かつての栽培の様子。円を描くような畝の様子が見える
小石だらけのなだらかな傾斜を水が流れていく
かつて豊富に水が湧いていた崖。

 わさびの栽培は大当たり。昭和の初めには神田青果市場に店を出し、昭和10年に築地市場が開場すると場外に移転。大沢のわさびは鮮度がいい、小ぶりだが味が良いと評判だった。
 パネル展示されていた創業5代目の箕輪一二三さん(大正12年生まれ)の証言だと「一日の目安は、六尺幅で長さ十間の畦を一本取ると、出荷出来るわさびが二百本ほど採れます」とのこと。いとこの箕輪宗一郎さん(大正13年生まれ)は「ひと月で一万本弱は出荷していたかも知れません」と語っている。
 最盛期には、現三鷹市内のほかの地や調布、府中、埼玉県の新座にまでわさび田を広げ、自転車で通っていたす。
 ところが、戦争で一部のわさび田が軍の射撃場にするために取られたり、贅沢品として販売が禁止になったり、戦後の不況で販売が低迷。さらには道路や宅地開発などで湧水が少なくなり、昭和40年頃にはわさび作りをやめてしまったという。
 平成19年(2007年)に市が寄贈を受けて整備、わさび田復活の動きにつながっていきます。先の箕輪一二三さんは
「最初は伊勢からもってきたものですが、その後伊豆や駿河から種を仕入れるようになりました。一番多かったのは駿河。だるまや、べにあずま、あかめ、しろだるま、くろっぱといった品種がありました」
と語っている。では何故、伊勢由来の品種が注目されているのか。
 それは、今では伊勢でも見ることが出来ない貴重な種だから。わさびの研究者として知られる山根京子准教授はわさびのDNAを調査して、大沢わさびのルーツが伊勢、さらには岐阜県にさかのぼることを明らかにしており、読売新聞の記事で「現在栽培されているワサビの品種は、大きく3種類に分けられるが、そのどれにも似ていない非常に珍しい型」と語っている。

いよいよ、植付体験


いよいよ植付体験

 一通りの理解が済んだこところで、いよいよ植え付け体験。わさび田のなかでも日陰が多く、水量が豊かそうなエリアに移動。とはいっても、普通の運動靴でも困らない程度の水量でしかない。
 どんな重労働かと思いきや、渡された土つきの苗3本を、ちょちょっと小石を掘った穴に立てていく。植えるというより、小石で支えて立たせる感じ。あっけなく終了した。また、畝のようなものもない。これで、本当に根付くのだろうかと心配になるが、すでに早く植えられたらしい一画は立派に育っているので大丈夫なのだろう。
 今回植えた1000本がうまく育てば来年には試食会を開催出来るかも知れないという。順調な生育を祈るばかりだ。楽しみに待ちたい(開催の告知を見逃さないようにしなければ)。
 余談だが、大沢の里は三鷹駅からはバスで40分ほどと離れているが、調布市の深大寺までは徒歩圏内。のんびり散策、参拝のあと、温泉に入って帰るのがおすすめだ。

檜原村のわさび田復活プロジェクトに参加


 三鷹市の植付だけでわさび栽培を体験したとは言いがたいので、Facebookイベントで見つけた「檜原村わさび田復活プロジェクト」の参加してきた。
 主宰者の方は7年前から檜原村に住み、5年前にこのわさび田の風景に惚れ込んで、こうしたイベントをはさみながら、復活のための取り組みを行っているという。なるほど、わさび田の周辺は清らかな水がとどまることなく流れ、サンショウウオの卵も観察できる素敵な場所だ。
 奥多摩地方のわさび栽培は、江戸時代に伊豆に林業の出稼ぎに行った人がノウハウを持ち帰ったと言われており、伊豆を思わせるような石積みの段々になっている。苗木も静岡県のわさび栽培のルーツの地、有東木(うとぎ)から買って来るのだという。しかし、テレビで見る伊豆のわさび田はもっと傾斜が緩やかで労働環境がずいぶん違うように思えるのだが、どうなのだろうか。


徒歩で1時間半 山道を登った果てに
 とはいえ、その別天地はガンダーラほどではないけれど果てしなく遠い。檜原村といえば、東京都の本土で唯一の村。JR五日市線の武蔵五日市駅からバスで40分以上の揺られ、さらにそこから約1時間半、徒歩で数百メートルの山を登らなければならない。最初は物珍しく、あちこち写真を撮っていたけれど、段々と言葉少なくなってくる。
 途中、道端の石が白いのは石灰石で、アルカリ性の水がわさびの栽培に適しているのだと説明を受けた。水を掬って飲むと甘いというので、あとでわさび田の水を一口含んでみたが、確かに甘かった。

 どうして里の近くでは無く、こんな山の上にわさび田を作る必要があるのだろうか。気温が低い、水源に近いので水温の変化が少ない、日光があたりにくい、といったことがありそうだ。
 わさび栽培の悩みは、意外なことに鹿だという。奥多摩にはツキノワグマ、ニホンカモシカ、ニホンジカなどの動物がいるが、まさか鹿(カモシカ?)が、わさびの葉を食べてしまうとは知らなかった。かなり被害が深刻であるらしい。
 さて、目的地到着。携帯の電波は入らない別世界だ。
 お釜で炊いたご飯に塩を振っておろしたてのわさびを乗せたら、それだけで充分に美味しい。檜原村で育ったきのこのスープと、珈琲もいただく。

わさび田の作業は重労働

 お昼ご飯も済んで、いよいよわさび田の仕事が始まる。
 このわさび田は10年ほど耕作放棄されていたそうで、わさび田の土が流れ出して石だらけになっている。そこで、山肌の土を削ってわさび田に入れて均すのが今日の仕事だという。
 ちょっと分かりにくいかも知れないが、上段が土を入れる前。下段が土を入れた後。このあと、大きな石などを除いて均したら、畦を作っていくのだという。

 思った以上に手間がかかり、大人4人で1時間半作業をして、土を入れ終わったのはわずかに2枚だった。
 その間に常連の参加者の方が、すでに土を入れ終わったわさび田に畦を作る作業をされていた。

 それにしてもこれは、なんと手間のかかるプロジェクトだろう。既に5年の歳月をかけているということは、5年前はどんな荒れた状態だったのかと思う。復活プロジェクトは一途な思いがないと出来ないことだと思った。
 ここまで手間をかけても、自然の猛威が襲えばひとたまりもない。西日本のわさびの名産地、山陰地方の農家の方々が、度重なるわさび田の修復に疲れてしまったという話を思い出して、それもむべなるかなという思いがした。
 15時半を過ぎるとひぐらしも鳴き始める。下山の時間だ。下っているうちい、林のなかも徐々に暗くなってくる。登りの時には精一杯で気がつかなかった風景のあれこれが面白い。途中で「ピィ」という鳴き声が聞こえて、あれはカモシカの鳴き声だ、そこの林に擬態している、と教えてもらったのだけれど、目をこらしても分からなかった。
 まもなく車道というあたりで急に陽が差し込んで気温がもわっとあがる。人里に降りてきたんだ。そういえば、これまで汗をかかなかった。
 なお、これも余談であるが、帰路は瀬音の湯に寄って汗を流し、ビールを堪能してから帰るのがおすすめだ。

わさびの栽培方法は実は多様だった

 わさび田というと、石垣を組んだ伊豆のイメージがすぐに頭に浮かぶが、三鷹市大沢と、奥多摩の檜原村を比べただけでも、畑の形状や、畦を作るか作らないか、などの違いがあった。 
 あきる野市や青梅市は、わさび加工メーカーのカネクがあったり、わさび漬の店などもあり、他にもわさび田体験が出来る場所がいくつもあるようだ。今回の体験だけで奥多摩のわさび栽培を分かった気になるのは危ない。
 実はまだ、静岡県の伊豆半島のわさび田をみたことはなく、有東木にも足を運んでいない。長野県の安曇野のわさび田は、何の知識も無いころに尋ねてほとんど記憶に残っていない。機会があれば現地を尋ねて、わさびの歴史を振り返りつつ、楽しみたいものだ。


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