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元祖握りずし 両国に華屋与兵衛の跡を訪ねる

 今では海外で知られる日本食の代表選手ともいえる握りずし。現在のように酢飯の上にわさびを乗せ切り身の魚と一緒に握るスタイルを確立したのは、華屋与兵衛とされている。

元祖握りずし・華屋与兵衛に江戸っ子が大行列

 同名のファミリーレストランチェーンとは関係ない。墨田区観光協会は次のように書いている。

蔵前の札差板倉屋の手代だった華屋与兵衛はお店風の風流が身にしみて、それが高じて不相応なぜいたくをして身代をつぶし、いろいろな商売替えをして本所横綱の裏店に身をひそめていました。しかし、道楽中に覚えた味から握りのこはだ鮨を考案し、それを岡持ちに入れて夜の繁華街を売り歩くと握り鮨の味が江戸っ子に受けて飛ぶように売れました。やがて屋台を出し、ついには「与兵衛鮨」という店を構えるようになりました。

 華屋与兵衛が両国に店をひらいたのが文政7年(1824年)。11代将軍家斉の治世で、異国船打払令(1825年)が出された頃。大政奉還(1867年)まで40年あまりといった時代だ。後に紹介する天保の改革(1830年 - 1843年)に反対した町奉行、“遠山の金さん”こと遠山景元がいた時代でもある。

 店があったのは、両国橋と回向院の間。両国橋東広小路はもともと火除地のとして設けられた広場で、見世物小屋や屋台が立ち並ぶ繁華街だった。回向院は明暦大火の犠牲者を弔った万人塚から始まり多くの参詣人を集めていたから、絶好の立地だったろう。

 近隣には吉良上野介屋敷跡や勝海舟生誕の地など史跡も多く、江戸時代の繁栄ぶりが伺える。 

 いま訪ねてみると、ひっそりとした裏通りだし、江戸の古地図を見ても大通りではない。しかし、行列のできる人気店だったようだ。当時の狂歌にこうあるという。

「鯛比良目 いつも風味は 与兵衛ずし 買手は見世に まって折詰」

 なんだか、裏通りの人気ラーメン店に行列を作る今の我々と、江戸の人々の気分は変わらないのではないだろうか。

 狂詩作者の方外道人(木下梅庵)が天保7年(1836年)に出した「江戸名物詩初編」には

「流行鮓屋町々在 此頃新開两國東 路地奥名與兵衛 客来争坐二間中」NDL コマ番号17

 路地の奥にある二間しかない店に客が押しかけて席を奪い合っていると書いている。

華屋与兵衛、穴子を握って投獄される

 与兵衛すしの跡近くの表通りには、墨田区教育委員会によって、このような看板が立てられていた。

 この横町の左手に, 江戸握り鮨発祥といわれる与兵衛鮨がありました。文政の初めに, 初代・小泉与兵衛(1799 ~1858)により大成されました。
 小泉与兵衛は, 霊岸島の生まれでしたが, 次々と商売を替えて, 本所で暮らすようになりました。その頃に, 大阪風の押し鮨にあきたらず, これを江戸風に鮮度を保ち, 手早く造る方法を工夫しました。始めは, 毎日岡持に鮨を入れて売り歩きましたが, 評判を呼ぶようになり, 屋台を出し, 後には店舗を開くほどになり, 殺到する注文に追いつけない繁盛ぶりだったと伝えられます。
 当時の狂歌にも「鯛比良目ひらめいつも風味は与兵衛ずし買手は見世にまって折詰」などと人気のほどを伺うことができます。
 また, 食通の武士の注文に応じて与兵衛が創案した「おぼろの鮨」も大変な人気となりました。屋台で山本のお茶を出したことも人気に拍車をかけました。
 以後, 昭和5年に惜しくも廃業しました。
平成12年3月
墨田区教育委員会

 墨田区が建てた木目調の案内板のある場所が、本来の店のあった場所ということになるのだろう。明治16年(1883年)のものとされる板塀を巡らした2階建ての店舗の絵が、繁盛ぶりを教えてくれる。

 せっかちな江戸っ子に、新しい時代のファーストフードが人気を博したのだろう。

 緑茶とすしの組み合わせが華屋与兵衛の考案だったとしたら、これもまた素晴らしい。すしにお酒も良いのだが、お茶のすしの組み合わせは、わさびの風味をふんわりと広げてくれるように思う。なんだか甘味が増すような気がするのは私だけだろうか。

 華屋与兵衛が握ったのは、コハダの切り身や海老だったという。酢じめにしたり茹でたりと、保存の処理がしやすかったためだろう。そこに、わさびを加えることで、さらに殺菌保存性が増したわけだ。

 握りずしに近い形体のものは、それ以前にあったともいう。にもかかわらず華屋与兵衛が握りずしの祖とされるのは、このわさびとすしの融合を成し遂げたからで、握りずしが人気を得れば得るほど、江戸の人々にわさびを食す習慣が広がっていったとみていいだろう。

 ところが華屋与兵衛は、根っからの贅沢癖が祟ったのか、ライバルとの競争に煽られたのか、歌舞伎の市川團十郎を江戸から追放するなど質素倹約を厳しく命じた水野忠邦の天保の改革(1830年~1843年)にひっかかり際し、後に説明する松が鮨の堺屋松五郎らとともに、投獄され手鎖の刑に処されてしまう。

 アナゴ寿司を握ったことが理由であるという。穴子ということは、ツメなのか? ツメはその頃あったのか? いずれにせよ、時代は徐々に息苦しくなっていったのだろう。

 とはいえ、天保の改革後に出た「武総両岸図抄」(安政4年/1858年)が、

「與兵衛すしつける山葵の 口薬 鉄砲巻の好むもののふ」

 という狂歌を載せているので、初代與兵衞の投獄後も繁盛は続いたのだろう。

 余談だが、マグロがネタとして握ったのは馬喰丁の恵比寿鮨で、天保年間(1830年~1844年)のはじめに江戸前にマグロの大群が押し寄せ、大漁すぎて困っていたからで、昔のマグロが下魚として評価が低かったのは鮮度管理の問題とあわせて、こうした事情があったからだろう。 

 よく言われるように、すしはもともと発酵食品で滋賀県名産の鮒ずしのように、魚が主体で飯は従であった。しかし、徐々に飯の部分が食されるようになり、酢の醸造技術の発展により酢飯が誕生。ネタと酢飯を重ね合わせる押し寿司が誕生する。

 握りずしの文献上の初出は『誹風柳多留』(文政12年 1829年〉

「妖術と いう身で握る 鮓の飯」(作句は1827年)

 で、華屋与兵衛が店を構えた3年後のことになる。

 回転寿司のルーツに「元禄寿司」チェーンがあるが、元禄年間は1688年から1704年なので、握りずし誕生より前になる。ただし、貝原益軒が記した『日本釈名』(元禄12年 1699年)に、その味が酸っぱいから「酸し(すし)」であるとしたそうで、すしの名前はすでに成立していたとは言えるのだろう。

与兵衛ずしのライバル、松が鮨の登場

 Wikipediaには「江戸三鮨」という項目があるが、誰が並び称したものであろうか。華屋与兵衛と同時代にもてはやされたすし店が、松が鮨と毛抜鮓だったという。

 泉州境生まれの堺屋松五郎が安宅六間堀(現在の新大橋近く)に松が鮨を構えたのは、華屋与兵衛から6年遅れて文政13年(1830年)。前出の「江戸名物詩初編」

「本所一番安宅鮓、高名當時莫レ可レ并、權家進物三重折、玉子如レ金魚水晶」NDL コマ番号17

 とあり、「玉子は金のようで、魚は水晶のようだ」と美しさをたたえ、お金持ちが三重折を進物に使うような高級すしだったと伝えている。関西出身だけに、商才に長けていたのだろうか。

  こうした松が鮨の高級路線が与與兵衞ずしの対抗心を刺激し、すしを発展させる原動力になったと同時に、折悪しく幕府のとがめをうけることにつながったのではないだろうか。

 河原和久さんの『読む寿司 オイシイ話108ネタ』は、実はこのときの北町奉行が遠山の金さんで、かなり粋な計らいをしたこと、与兵衛ずしが「召し捕られたほどの寿司」として名声を得ていったという知らなかった面白い話を掲載したいる。ご興味をお持ちの方は、お読みいただくと良いと思う。

松が鮨はどこにあったのか? 

ここで一度整理しておきたいのが、松が鮨の名称である。Wikipediaのなかでも「江戸三鮨」の項では「松が鮨」、「堺屋松五郎」の項では「松ケ鮨」となっており、「江戸前鮨」の項では「松が鮨」となってる。

 昭和5年刊の『すし通』(永瀨牙之輔)は、

 松ヶ鮨は俗称で、ほんとうは砂子鮨(いさごずし)という家名だか、場所が安宅町で主人が松五郎というところから、通人が安宅の鮓とか松ヶ鮓とか呼んだのだという話である。

 と書く。

 当時は登録商標といった概念もなく、表記もアバウトだったのだろう。明治期の新聞広告でさえ、「安宅松乃壽司」「安宅松壽司」「安宅松のすし」だったりと様々だ。

 また、「安宅鮨」と呼ばれることもあり、これは店の場所に由来したものだという。安宅六間堀は現在では埋められて住宅地になっているが、地図に目をこらしてみると都営新宿線新大橋駅の東側にYの字の堀の跡がある。新大橋のたもとに御船蔵跡の碑があり、幕府の巨大な軍艦「安宅丸」の停泊地だったことから、この一帯は「アタケ」と呼ばれたとある。

 店の詳細な場所は分からないが、両国の与兵衛ずしからも1キロと離れていない徒歩圏内で、近いが故に気にもしただろう。いずれも隅田川の東岸で花開いた文化ということになる。

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 松下幸子千葉大学名誉教授が「江戸食文化紀行」で

すしといえば押ずしが主流でしたが、松のすしが握りずしをつくり始め、江戸の人々に好まれて握りずしが流行したといわれています。 また『江戸名物詩』の中に「此松のすしは握りすしの初めなるも、昔時押すしの形を存せんとの意か、一人前の盛り皿の中に、必ず押すしを交せり」とあるそうですから、皿の上のすしに巻きずしや押ずしがあることもうなずけます。

 と松が鮨がルーツ説を紹介しているが、どうであろうか。押し寿司の文化を引きずった松が鮨よりは、おもいきり舵を切った華屋与兵衛に先進性を感じる。

 松が鮨ルーツ説のよりどころとして文政13年刊の随筆集『嬉遊笑覧』があるが、未確認である。

 わさびの話に立ち返って言うと、

「伊豆わさび隠しに入れて 人までも中州安宅の 丸漬けのすし」(武総両岸図抄/1858年)

 の狂歌から、松がは伊豆のわさびを使っていたようである。鯖の丸漬のすしが評判だったそうである。

算盤ずくならよしなまし松ヶ鮓

 という川柳があったそうで、天保頃は四文が一般的な値段だったが松が鮨は5、60匁もとたのので、このことが天保の改革に投獄された理由だと書くのは、前出の『すし通』である。

毛抜鮓と笹団子の意外な共通点

 もう一方の雄、毛抜鮓は越後新発田出身の松崎喜右衛門が元禄15年(1702年)に竈河岸(現在の人形町)で開業。他の2店より開業が早く、防腐剤として熊笹の葉で密閉する方法を採った。新潟名物の笹団子には上杉謙信の家臣が発明したとの伝説もあるそうで、相通じるものがある。

戦前に比べたら酸味はかなり押さえています。昔の味を知っているお客様からは「これでは物足りない」といわれてしまいますが。うちは九割ほどがお持ち帰りのお客様。半日くらいたって「しゃりとタネが馴染んでくる頃が一番おいしいから」という、かなり通の常連さんもいらっしゃいます。
十三代目 宇田川浩さん
神田法人会

 わさびと直接関係はないが、貴重な江戸のすし文化を残すお店なので、機会があればぜひ足を運んで欲しい。

江戸の握りずしブームは大阪へも飛び火

 江戸の握りずし人気は大阪にも飛び火した。大坂から江戸に移り住んで風俗の違いに驚いた喜田川守貞が詳細に書き留めた『守貞謾稿』に

「文政の末頃より戎橋南に松の鮨と号(なづ)け、江戸風に握り鮨を売る。烟華の地なるをもって行われ、のちに大西芝居西隣の角に転居し是れまた今に存す、是れ大阪にて江戸鮨を売るの始め也」

 とある。また、名古屋には天保年間(1831-1845年)に広がったという。とはいえ、いずも限定的であろう。

 握りずしの歴史は面白く、おもわず長くなってしまったが、先を急ぎたい。ご興味のある方は、北九州の北伊醤油のサイトが驚くべき充分ぶりなのでご覧になられたら良いと思う。

握りずしのわさびはどこからやってきた?

 今回のまとめとしては、このような熱狂的なすしブームが、わさびの普及に大きな役割を果たしたであろうという点を押えておきたい。

 ところで、江戸でわさびが大量消費される食材となるためには、あるイノベーションが必要だった。次回はそれについて追いかけてみたい。

 また、ここまですしがわさびの普及を後押しした流れを見て来たが、蕎麦はどうだったのか、という点についても考察してみたい。

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