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伊豆のわさび田はなぜ石を敷き詰めるのか? 江戸時代はそうではなかったのに。

このシリーズをここまで読み進めてくださっている方は、わさびに関心の深いかたばかりかと思うので今更説明の必要は無いかも知れないが、「わさび栽培法の確立が握りずし誕生を可能にした」の回で記したように、江戸でにぎり寿司が考案されてわさびが庶民の生活に普及する前段階として、わさびの栽培方法が伊豆半島に伝わり江戸へ出荷されたことがあった。
 伊豆半島は今でもわさびの一大産地であり、一度は訪ねて見たいと思っていたが、公共交通機関では山間部の交通が不便でなかなか足を伸ばせないでいた。今回、知己の沼津経済新聞、榎さんにご案内いただいて伊豆の滝尻わさび園を見学して大変面白かったので書き記しておきたい。滝尻わさび園では事前予約の有料体験コースもある(冬季の12月~2月は除く)ので、ご興味のある方はぜひどうぞ。今では海外からの見学者も多いそうだ。


清流溢れる絶景を堪能

 

伊豆のわさび田といえば『静岡県の棚田10選』に選ばれた筏場が有名で、東京ドーム3個分といわれる広大なわさび田が広がっている。湯ヶ島の滝尻わさび園は、そこから国士峠を挟んだ西側にあって、浄蓮の滝が注ぎ込む本谷川沿いにある。

ご案内くださる浅田恵子さんが、港街の焼津から嫁い来たのは2012年。わさびに魅了されて、noteInstagramFacebook、などのSNSでも情報発信を続けている方だけあって、説明がよどみなく分かりやすい。
海外からの見学者も多いそうで、英語の説明プレートが用意されていた。
わさび田の話も執筆されているnoteを読んでもらうほうが正確だと思うが、私なりの視点で聞いた話を再整理していきたい。

滝尻わさび園を経営する浅田家がわさび栽培を始めたのは大正時代。名産地の伊豆とはいえ、どこでもわさび田が拓けるわけではなく、当初は片道3時間かけて通っていたそうだ。昭和5年(1930年)に自宅近くにわさび田にふさわしい水源を見つけて堤防を作り、わさび田を整備してきたのだという。
そうした場所だけに、わさび田へ向かう数分間の間にも、清流ほとばしる絶景が広がり魅了される。この豊かな水量が、美味しいわさびには欠かせないのだろう。

滝尻わさび園のわさび田は、狭い山裾に設けられているが、周りを山々と高い木立に覆われているおかげで、わさび栽培では大敵の直射日光を避けることが出来、豊かな水量を得られている。

わさび田の地下は三層構造になっていた

わさび田の風景といえば、すぐに思い浮かぶのが石垣で組まれた棚田の風景だ。「畳石式」と呼ばれる栽培方法だが、なぜそのような造りになっているのかといえば、実はわさびの葉に埋もれた地下の構造に秘密があった。
現地でも見せてもらった説明図が静岡わさび農業遺産推進協議会のサイトにあるので、拝借しつつ説明しよう。

この図にあるように、わさび田の地下は上から砂礫の作土層、やや大きな石礫の層、大きな石を敷き詰めた畳石層に分かれている。「豊富な湧水をかけ流すことで、不純物のろ過、水温の安定、栄養分や酸素の供給を同時に行えるため、わさびの安定生産が可能になる」と説明されているが、なかでも水温の安定はメリットとして分かりやすい。水深が深く取れるので、日光や気温の影響を受けにくいことは容易に想像出来る。
滝尻わさび園では、砂・砂利(小石)・中石・大石の4層構造となっているそうだ。
いちばん上の砂礫層は指の間からこぼれ落ちるほど、砂粒が小さい。数センチ下を探ると、小さな小石の層に行き当たった。
わさび田には腐葉土や肥料を入れることはなく、わさびの生育にはとにかく豊かな水量が必要なのだそうだ。
環境に配慮して、無農薬で栽培しているのだそう。

水源から離れた下流のわさび田は病気にかかりやくくもなるのだという。
そのため、水源から下流のわさび田に直接水を供給するパイプも山肌に沿って設置されていた。

ちなみに、説明図にあるヤマハンノキとは湿地や寒さに強い広葉樹で、砂防や土留のためびも植えられるというもので、ここでは主に陽よけのために植えられている。

わさびのブツブツはどうして出来るのか?

豊かな水量が必要な理由のひとつは、わさびの育ち方にあった。
わさびといえば、下の写真のようにボツボツとした突起と、らせん状の段々があるのだが、それはなぜだろうか?
わさびは茎の中心から新しい芽が生まれて茎が伸びて葉を広げて行く。そのかわりに一番外側が茎ごと枯れて落ちる。その生長のあとが、あのイボイボと段々を作っていたのだ。
わさび栽培では、この落ちた茎や葉が問題なのだとうだ。水に落ちて腐ってしまうと水流を妨げ、病気の原因になる。かといって、ぎっしり生い茂ったわさび田に人が降りて行って除去することは難しい。ところが下が砂礫層であることで、豊かな水流が落ち葉や苔といったものを含めた不純物を押し流してくれるのだそうだ(「ヌク」が溜まるという言い方をされていた)。

伊豆のわさびはなぜ栽培発祥の地を凌駕出来たのか

伊豆のわさび田といえば石積みの棚田のイメージが強いが、「畳石式」と言われる栽培法は明治25年(1892年)に上大見村の平井熊太郎という人が発明したという。
ここでおさらいしておきたいが、静岡のわさび栽培は静岡市の安倍川の上流にある有東木地区で慶長年間(ざっくり関ヶ原の戦いから江戸幕府の成立前の時代)に始まったが、その方法は門外不出とされた(徳川家康が禁じたという言い伝えがある)。そこから約150年を経て栽培法が伊豆に伝わった。軌道に乗るには時間が掛かったが、天保の飢饉(1833年~1839年)の頃には人々が生活に困らないほどの現金収入をもたらした。そして、八百屋の息子だった華屋与兵衞が紆余曲折を経てにぎり寿司を考案し、文政7年(1824年)に両国で店を構えてにぎり寿司の大ブームを起こすことになる。
ということは、江戸時代の伊豆では、有東木と変わらない栽培方法を採っていたことになる。「地沢式」という斜面に砂礫を撒いて栽培する方法なのだろう。
とすれば、なぜ伊豆が有東木を抜いてわさびの一大産地になり得たのだろうか。
換金性の高いわさびを、大量消費地の江戸に船で直接運び込める地の利があったことは大きな理由のひとつだろう。
もうひとつは、水量の豊富さだと思われる。

太平洋から吹く温かくて湿った風が天城山(標高1,406 m)などの山々にぶつかることで多くの雨を降らせている。写真の説明図にある静岡県の年間降水量の地図を見ても圧倒的だ。
そしておそらくだが、フィリピン海プレートが日本列島に沈み込む伊豆半島は峠や谷の多い地形で、大小様々な断層があり、半島のあちこちで豊富な地下水を噴出しているため、半島内の様々な集落でわさび田の開発が可能だったことがあるのだろう。

わさび栽培あれこれ

滝尻わさび園で栽培しているわさびは2種類あり、栽培の面積比で約7割が和歌山がルーツの真妻わさび。3割が、よく知られる実生わさび。真妻わさびは実生わさびほど大きくならないが、実が詰まっていて「わさびの最高峰」と言われている品種だそうである。

写真の左が真妻わさび、右が実生わさび。大きさの違いが類推していただけるだろうか。茎の太さもかなり違って見える。
ところで真妻わさびの根の先端からあらたに茎が伸びて小さなわさびが生えてきている。こういうものは出荷時に剪定されるが、味は変わらないので別の用途に使われる。お蕎麦屋さんで小さなわさびとおろし金が出てくることがあるが、たとえばああいう用途なのだという。

私も収穫鍬を貸してもらって収穫体験をした。
砂地なので、力はほとんど要らない。
専用の道具で、途中で折らないようにやや深めに掘り起こす感じは、ちょっとタケノコ掘りを思い起こさせる。

ただし、足元を常に水が流れているので、10分ほど立っているだけでも体の底から冷えてくる感じがした。冬場はかなりの重労働だろう。

江戸時代は夏の期間は出荷が出来なかったそうだが、今は春に育った苗木を冷蔵庫に保管しておいて、1年中作付けが出来るそうである。とはいえ季節によって味の変化はあり、夏は水を多く含みがちで、秋がいちばん味が良いわさびが出来るそうである。

収穫したわさびは、余計な根などを切り落とし、茎を切って形を整えていく。茎をきれいにそろえるのは簡単なようでして熟練の技が必要だそうで、滝尻わさび園では99歳のおばあちゃんが包丁を使って切り落としていた。


滝尻わさび園では、1年半から2年で出荷にちょうど良い大きさに育つそうだ。静岡県内でも御殿場方面は1年を通して涼しく、富士山の雪解け水が伏流水となって水量豊かなこともあって、2年を超えても栽培が可能で、太物のわさびが出来るようであるである。
わさびは根の先端から上に向かって育っていくので、茎に近い側がいちばん新鮮。わさびをおろすときは、こちら側からすりおろすことを推奨される。ただし、ちょっと水分が多め。根の先端は最も古いので下の写真の通り色が黒ずんできて、味も少しエグミが出るそうである。わさびをすりおろしたことはあるが、そこまで味比べをしたことはないので、聞いてビックリである。

わさび田の危機

こうした魅力溢れるわさび田だが、未来に繋げていくことは簡単ではないそうだ。
ひとつは、種そのものの危機。次の写真は真妻わさびの花が咲いたあとだが、美味しさで評価の高い真妻わさびは種が実ることはまず無いのだそうだ。そのため、親から分けた子苗を育てる栄養繁殖や、バイオ技術によるメリクロン苗から栽培される。株分けで増やす方法もあるが、病気なども伝わる可能性がある。
ただ、代を重ねるごとに種が弱くなるのだそうで、これは三鷹の大沢わさびの復活でも出ていた課題だ。

大沢わさびといえば、立川崖線から湧き出す豊かな水で栽培されていたが、道路や住宅地の開発で地下水が枯渇したことが原因となって栽培が途絶えていた。伊豆の山中とえども道路開発などが行われており、思わぬ影響を及ぼす可能性がある。
昭和33年(1958年)には台風でわさび田を流失したことがあったそうだ。近年の温暖化による台風被害も気に掛かるところだろう。
そして、「畳石式」のわさび田が三層のフィルター構造になっていることは先に説明したが、年を経るごとに目が詰まるので、30年に一度はすべてを組み直す必要があるそうである。しかしわさび田は一輪車がやっと通れるくらいの道しかなく、重機を入れる分けにはいかない。人の手で全てをやるとなると、一枚で1000万程度の費用が掛かってしまうそうである。そこで高圧の水で詰まりを洗浄しているが応急処置であることに変りはない。

浅田恵子さんは「先人たちが築き守ってきたわさび田を100年後までもこの環境を残せるのか」という危機感を感じ、様々な情報発信を始めたそうである。
それにしても港街焼津の女性が、どういう分けで伊豆山中のわさび農家に嫁ぐことになったのだろうか。見学の帰路、ふと気になって聞いて見たところ、地元の婚活イベントで知り合い、改めて二人で出会ったその日に、このわさび田に連れてきてくれたそうである。「ひと目見て、わさび田に惚れ込んでしまって」。ナイス、旦那さん!
今後も素敵なわさび田を残し、魅力を伝えて行っていただきたい。


伊豆の本なら何でも揃う 長倉書店

せっかく伊豆に出掛けるのであれば、時間があれば立ち寄って欲しい書店がある。

修善寺駅からすぐの場所にある長倉書店
伊豆とえば夏目漱石や川端康成など、多くの作家が訪れた。修善寺生まれ、修善寺育ちの社長は、伊豆に関するありとあらゆる書籍を店内所狭しと並べている。仕入れるだけではなく、自社で刊行もしている。
私も色んな地方書店を好きで歩いているが、これほど地元の本に傾注している書店は見たことがない。伊豆に関する本なら、ここで揃わないものはないのではと思われる。
旅先の宿でゆっくりページをめくるもよし、旅から帰った後に思い出を反芻する縁として購入するもよし。自宅の本棚に並んだ背表紙は、きっといつまでも、旅の楽しい思い出を思い起こさせてくれるだろう。

わさびの本も教えていただいて、早速購入。

私のnote「作家の宿、文豪の宿 150軒」でも伊豆の宿を11軒紹介しているので旅のプランのお役に立てるかも知れない。









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