2023_02_18 に思ったこと

===== 現在の私・情緒飢餓状態 =====

2023年2月18日(日)に書きました。

現在私は24歳と数ヶ月、大学院の修士課程におり、修士論文発表を終えて一週間あまり経過したところです。

修士論文を書いている時期あまりに忙しかったので、その反動のせいか論文発表が終わってからはずっとだらしない生活が続いております。一人暮らしなのですが、家事も何もかも全てのことが疎かになっています。修士論文執筆という極めて理性的な作業をした後は脳が疲れ果て、理性的な作業をこれ以上したくないと叫んでいるようです。代わりに、しばらく触れることのできなかった情緒的なものを飢餓状態のごとく欲しています。例えば映画や宗教的なことなどです。

今日はU-NEXTでフランス映画二つを観ました。
愛を綴る女、水の中のつぼみ、です。
2016年、2007年に制作された映画だったと思います。

===== 愛を綴る女・好きな人とは結ばれぬ =====

愛を綴る女は、
1950年代、貞操観念の強い田舎の家で生まれた美しい女性の話です。
彼女は激しい愛欲を抱えており、神父に告白し行為を迫りますが狂っていると思われ拒絶されてしまいます。
その後、母親に真面目な男と結婚させられ、愛のない生活を始めます。
男は結婚後も彼女から拒絶、浮気されますが、それでも愛し続けます。

私は、この映画を私自身の現在の思いを重ねて観ていました。
拒絶された時の苦しみ、好きでない人との交際、拒絶されてもなお愛し続けることができるかどうか?などといった思いを登場人物たちに重ねて考えたり思い返したりしていました。

主人公の女性は神父のことが好きで堪らず、神父から借りた本にキスをしたりします。
私も好きな人の写真にキスをしたりしていたことがあり、懐かしく思いました。

神父から拒絶された時、主人公の女性は神父を後ろから突き倒して、森の中に一人で走って行きます。そして自殺を図ったのでしょうか、川で倒れていました。
私も好きな人に振られたあと、夜に雨の中一人で地面に寝転がってしまいました。その後、何度も建物の4階から飛び降りたくなったものです。

自分の愛欲に振り回されている娘を見かねた母親は娘の安定のために、同じ村の非常に真面目な男に、自分の娘と結婚しないかと持ちかけます。以前より彼女のことが好きだった彼は承諾し、結婚が決まります。
私の場合も自らの安定のために、オンラインで真面目そうな人を選び、会ってお付き合いすることになりました。

主人公の彼女はしかし、彼には全く興味がなく、結婚前から「あなたのことは決して愛さない。あなたとは決して寝ない」と宣言します。
私の場合も、相手のことを好きではないのですがお付き合いの申し込みを承諾しました。好意は未だ伝えていません。行為もしていないし、したいとも思いません。

結婚後、彼女は腎臓結石のため山奥のサナトリウムのような所に入院します。そこで出会った元軍人の男に恋をします。そして彼と駆け落ちしようとします。しかし彼はすぐに亡くなってしまいました。
私も、お付き合いの後、以前私を拒絶した方への想いを抑えきれず、メールで結婚の申し込みをしました。しかしその方には既に付き合っている方がいることが分かり、願いは完全に絶えてしまいました。

その後、愛のない結婚生活に不満を感じつつも、自分を納得させるようにして彼女は生きていきます。一方、旦那さんは子供と彼女を愛し誠実であり続けます。最後、彼女は旦那さんの愛を初めて受け止めハッピーエンドを迎えます。

私も、なんとなくそんな風に生きていく気がします。一番好きな人とは結ばれない。結ばれたとしても不幸になる。そういうものなのかも知れません。

私は最近私を拒絶した方と同じくらい好きになった人が過去にいました。その方は幸運にも私に対して好意を抱いていたので、付き合うことができました。しかし、私の想いが加熱しすぎてアンバランスになったためか、関係が悪くなりすぐに別れてしまいました。今回私を拒絶した方も、私の過激すぎる好意に辟易してしまったのかも知れません。

したがって、好きになりすぎない相手との方がむしろ上手くいくのかも知れないという希望を抱いて、現在の方とお付き合いさせて頂いております。

しかし、映画の主人公の旦那さんは、彼女から拒絶・浮気されても愛し続けており、そんな良い方が本当にいるのか疑念を抱かずにはいられませんでした。私は現在の相手のことを無視して、以前私を拒絶した人に結婚を申し込むというとんでもない愚行を犯している訳ですから、今の相手に捨てられても仕方ないと既に諦めかけています。

自分が悪いことをする奴は人を信じることが出来ない。
また、人に騙され信じることが出来なくなると、自らも人を騙すようになる。

私はまだあの人が好きなのに、自らを安定させるという極めて自己中心的な目的のために、他の人と付き合っている。

そして、そのことを大して罪にも思っていない。

いつか酷い目にあって悔やむのかも知れない。

===== 水の中のつぼみ・青春のすべて =====

水の中のつぼみ は思春期の女の子3人の物語です。

疲れたのであらすじは書きませんが、思春期の不安定さをよく描いた作品でした。

15歳というと大人びた子やまだ子供っぽい子もいる年頃です。心は大人になろうとしているが、子供の心が足を引っ張ってなかなか羽ばたけない。そして拙いがために自分や周りを傷つけては悲しむ。人付き合いも変わってゆき、みんな取り残されないように必死である。そして異性・恋愛が興味の中心に移ってゆく。

このような、思春期に誰しもが経験するであろう心のカオスな状態をこの映画は全て表し尽くしているように思いました。

私はいい年になっても未だに思春期を引きずっており、自分の感情や思考の癖を上手くコントロールできないです。なので、そうした自分の心を投影するためのツールとして思春期を描いた映画や作品を観るのが好きです。逆に大人を描いたものはよく理解できないようです。

===== 青春映画のすすめ =====

私の好きな青春映画は、リリイシュシュのすべて、クーリンチェ少年殺人事件、青い春です。

===== リリイシュシュのすべて・残酷な美しさ =====

リリイシュシュのすべては2年半前に初めて観て以来、半年に一回は観ている大好きな作品です。夏の青々とした美しい田んぼが広がる栃木県足利市を舞台とした中学生たちの物語です。美しい田んぼの風景とは裏腹に、中学生たちの間で行われるのはいじめ、売春、殺人、、、この映画を一言で表すと残酷な美しさと言えましょう。

私がこの映画が好きな理由は、私自身が中学生の頃に感じたいろいろなことがこの映画には凝縮されているように感じたからです。小学生から中学生に上がる時、人間関係や行動範囲が一気に広がることに不安を覚えつつも、恋愛などの希望を抱いたりしました。しかし、自分も周りも小学生の時のような純真さを次第に失い、互いを差別し時にはいじめに発展する。そして他人を信じるのが難しくなり、自分の殻に閉じこもるようになったものでした。そんな中で少しでも気の合う人がいると、自分たちだけの世界で魂が通い合っているかのように感じ、悦にいることもありました。しかしほんの小さなすれ違いから、すぐに遠い人となってしまう。

そんな思春期の全てがこの映画には詰まっていて、私にとっては思春期の宇宙のようなものなのです。

===== クーリンチェ少年殺人事件・浮き草の心 =====

クーリンチェ少年殺人事件は、半年前に初めて出会った作品です。1950年代の台湾が舞台の中学生たちの物語です。当時の台湾は戦前の日本の風情を残しており、人々もまだ近代都市化以前の純朴さが残っているようです。そんな中、少年たちの間では一人の少女を巡って抗争、殺人が繰り広げられます。

私が好きだった方がとても美しい方で、どうやら以前から男性たちを翻弄してきたようです。映画の中の少女もまさにそのような子で、主人公は彼女に翻弄され、全てを捧げようとしたにも関わらず拒絶されてしまったことで、彼女を殺してしまいます。従って私は彼の気持ちに深く同情いたしました。

女心の分からない私は、映画の中の彼女がなぜ彼を拒絶したのか理解できないのですが、まさにそれこそ主人公であるシャオスーが彼女を殺した理由でもあるのでしょう。少女シャオミンは殺される前にシャオスーに対して「世界を思い通りにできないように、私を思い通りにすることもできない」といったニュアンスのことを言いました。

シャオスーはシャオミンのことを「一生守ってあげる」とか君のために尽くすということをずっと言っていました。それは、その代償にずっと自分と一緒にいて欲しいと願っているからです。
私も好きだった方にそのような意思を伝えていました。

こちら側からすれば、自分の全てを捧げると言っているのだから、その代償として自分の傍に居てくれるのは当然だという風に思う訳ですが、相手側からするとそれは一方的な思いの押し付けでしかないのでしょう。

「愛を綴る女」の旦那さんは、結果的に主人公の心をつかみハッピーエンドに終わる訳ですが、「クーリンチェ」ではその反対にそれが失敗に終わり敢え無くもシャオミンを殺してしまうのでした。

https://cinemore.jp/jp/erudition/2130/article_2131_p4.html#a2131_p4_1

上にあげたURLの解説が理解を補う上で参考になりました。

人の心を思い通りに操作することはできない。それは社会に対しても、自然に対しても言える事である。特に思春期の心はとどまるところを知らず変化し続ける。だから思春期を描いたものは心の宇宙を見せてくせるように感じます。

クーリンチェ少年殺人事件を二回観る事で、私自身の失恋を少しは真正面から見つめることができるようになったかも知れません。今でもやはり、自分を翻弄した挙句に拒絶し他の男に行ってしまった彼女を許せないような気持ちがあるのですが、人の心は浮き草、自分の思い通りにならなくて当たり前だという事を認識しなくてはならないのでしょう。

また、自分の心もよく見つめればゆらゆらと動き続け、自分にも他の人にとっては理解し得ないものがあるはずなのです。それをしっかりと観ずる事ができ、それでもなお自分を大切にできた時に他人に対しても真の意味で優しくなれると思うのです。

===== 青い春・虚無感 =====

青い春は、2000年代前半の映画です。将来に希望を持てない高校生たちの閉塞感を描いた物語です。主演は松田優作です。

それまで学生生活を何となく過ごしてきたであろう高校生たちですが、高校3年にもなって来年から社会に出るとなった時、自分たちには何もない事を思い知らされます。余命幾ばくもない子は毎日桜の世話をして過ごします。甲子園の夢を絶たれた球児は、学校にいても仕方がないとヤクザの道に進みます。不器用な子は調子のいい友人にいつの間にか子弟扱いされたことに腹立ち殺してしまします。新井浩文は唯一の友人である松田優作にちゃんと向き合ってもらえない事に絶望して自殺します。そして全てが無意味だと思っていた松田優作は、新井浩文が自分にとって唯一無二の友人である事に最後の最後で気付くのですが時すでに遅しでした。

という、途轍もないニヒルを描いた作品です。映画の中に描かれている彼らのように不器用でない人たちは、高校を出て大学に行き、就職、結婚、出産、子育て、と各々の段階において適切な「暇つぶし」を与えられるので、彼らのような虚無感を感じることは割合に少ないかも知れません。しかし、そんな彼らも退職し人生の終わりが近づく頃には、自分は一体これまでの人生で何をしてきたのかと虚無感に襲われるのだと思います。

要するに何を言いたいかというと、時代や各人の能力、性格によらず誰でも人生の中で一度は感じるであろう虚無感というものが、不器用な彼らを通してうまく描かれていると私は感じました。

勉強、部活、仕事、趣味、友人関係、恋愛などで常に目まぐるしく動いている間は、充実感が虚無感にまさり絶望せずにいられます。しかし、それらから少し離れて暇になった瞬間に私は途轍もない虚無感を覚えることがあります。

そして、それまで意味があると思ってやってきた勉強、部活、仕事、趣味、友人関係、恋愛は全て虚無感から逃れるための方便に過ぎないのではないかという気がするのです。このまま意味のない事を続けて死ぬまで生きていて何の意味があるのだろう。一体私は人生で何をやれば良いのだろう、と。

そしてまた、死んだら私は何になるのだろう。この考えていることや思っていることが全て消えてしまい、私という意識は二度とこの宇宙には現れないのだとすると、今たまたま存在するこの私は一体何なのだ、と。

青い春はとにかく虚無感の塊のような映画で、思い出すと息が詰まりそうです。しかし、表面的な装飾だけで耳目を喜ばせる類の映画とは異なり、この生に関する本質に迫っているように思います。