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みんな違うから、だから面白い


誰にでも経験があると思うけれど、世間の目や周りの目を気にしたことがあると思う。

うん、わたしにはある。

その場の空気だったり、年齢だったり、性別だったり、置かれた環境だったり。
そんないろんなエッセンスが混じり合って、これはおかしいのかな?これは間違っているのかな?と気にすることが多かった。


何か大きな決断をする時にも、俯瞰的に客観的に大丈夫かな?と考える。
変じゃないかな?問題ないかな?と気にかける。

それはきっと、なにか迷った時に相談すると言われてきた「普通〜〜だよ」「みんな〜〜だよ」という言葉。
きっと誰しも一度は言われたことがあると思う。

その時にいつも思ってきた。
普通ってなんだろう?そう言われるってことは、わたしは普通じゃないのかな?
みんなに当てはまらないわたしは、何かおかしいのかな?

手探りながら、「普通」「みんな」に当てはまる答えを探してきた気がする。


だけど、オーストラリアでの生活が、そんな手探りな答え合わせを完全に覆してくれた。

こんなことがあった。

渡航して語学学校で知り合った友人と話していた時、ドラッグや堕胎などすこし重ためな真面目な話になった。
その友人は、国の法律のこと、国民性のある意見、そして自分が思っていることを伝えてくれた。

国の法律では◯◯っていう罰則があるし、周りも賛成している。
だけどわたしは◯◯って思うから反対なんだよね〜。

そんな風に言っていて、「Ainaは?」と聞かれた時に答えに詰まってしまった。

国の法律に関しても、ダメということしか知らない。
ダメなものは、ダメ。その考え方一択。
だからわたしからは「法律では◯◯だよ」、それ以外の言葉は出なかった。

ダメなものはダメとしか考えてきていなかった時に、その時に友人に何度も言われた。

「日本人の考えはもう分かったから、Ainaの考えは?わたしはあなたと話していますよ。」

そこへの答えとして、法律が…みんなが…普通は…と答えたところでどれもわたし自身の考えではない。
そもそも、わたしの考え自体がないことに面食らった。


そんな経験からか、わたしは相談相手や議論した相手が、自分の意見ではなくて世間一般論を羅列してきたら会話する気がないんだなぁと受け取るようになった。

目の前にいる人と会話がしたくて、意見が聞きたくて相談したのに、急に「背後には何千万人の同志がいるんだぜ」という感じを出されても腑に落ちない。
一対一の会話に、知らない誰かを混ぜないでほしい。

そしてなぜか、多数派が正しく見えてしまうけれど、多数派という環境はいざという時に守ってくれるわけでもない。

そこに違和感を感じたり、馴染めない自分にプレッシャーをかけてくる。
みんなが当たり前にできていることをできない自分、が見事に完成してしまう。

多数派の輪から外れないように頑張って、外れそうな自分が情けなくて、外れている人を物珍しい目で見る。


多数派も少数派も、みんな違うんだ。
だから、面白い。


もし、みんな違いがなかったらきっと言葉もいらなかったはず。
少数派がいるから、多数派だって生まれている。

「みんな」に当てはまらないことって、なにも意味していない。
悪いことでも、正しいことでも、怖がることでも、なにもない。ほんと、なんてことない。

誰だってみんな、自分の気持ちをもっと大切にしていい。もっと自分の気持ち伝えたっていい。
その分、相手の気持ちも大切にできたらいい。聞いていけたらいい。

お互いの気持ちや言葉を投げつけるでも、押し付けるでもなく、手渡しするように分かち合えるようになれたらいいなぁ。



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