たすけあいと勇気

 私の身長は157cm。先日健康診断で背伸びせずに測ったから、測定器が壊れていない限り確かだ。私の年齢の女性の平均身長は2019年時点で157.9cm だから、それとほぼ同じだ。
※出典 厚生労働省(2019)「国民健康・栄養調査」 

 この身長だと、電車のつり革にはめいいっぱい腕を伸ばさないといけない。さすがに背伸びはしなくてよいけれど、たった数駅でも割とつかれる。だから、もし席の端の縦向きの手すりやドア横の手すりが空いていれば、他に必要そうな方がいなければ、通路や乗降口の邪魔にならないように、バッグを手に提げて低くして、こじんまりと立つ。今夜も例に漏れずそのようにしていた。
 すると、車椅子のおじいさんが乗ってこられた。私の乗った車両には、その端に座席がなく、長い横向きの手すりがあるところで、車椅子の方やベビーカーを運ぶ方のためのスペースがあった。私はひとりそわそわしていたが、誰も何事もないように思い思いに過ごしていた。おじいさんは慣れた手つきで手すりも壁もない通路の真ん中に車椅子を固定した。間もなく発車しようとしていた。居ても立ってもいられず(正確に言えば立っていたのだが)、無言で移動した。「ここいいんですか?」と問われ、「ぜひどうぞ」とお譲りしたのは、座席の端ドア前のスペース。後から考えると、どう考えても車椅子の方向けの場所ではない。もし乗降中に地震でも起きたら、下手すると車椅子ごと外に投げ出されてしまうかもしれない。それでも、何も拠り所のない車両のど真ん中よりはましなんじゃないかと、お譲りしたときには思ったのだ。おじいさんは車椅子を再び固定して、読書を始めた。
 私は、居心地の悪さを感じながら、おじいさんの向かいで腕をめいいっぱい伸ばして手すりを握った。ずっと頭の中で問答を繰り返す。これでよかったんだろうか。元の場所のほうがよかった? いや、それは…… 次の駅で勇気を出して車椅子スペースの方に声をかける? 怖い、無理…… 問答は続き、一駅過ぎ、二駅過ぎ、と電車は走り続ける。最寄り駅に着くまでの時間が、常の何倍にも感じられた。電車が最寄り駅に近づき、私は乗降口に向かう。反対側の座席の端の手すりを持った男性は避けることをせず、車椅子でドア半分を遮られた乗降口は降りづらかった。やっと電車を降りると、私は一目散に階段を駆け下り、改札口を抜けた。それから自宅まで、唇を噛みしめ、ぐっと涙を堪えた。声を上げることのできなかった悔しさや、周りへの憤りなど、いろんな感情が渦巻いていた。もしかしたら、私が動かなければ車椅子スペースの誰かが動いてくれていたんじゃないかとも思った。ベストを尽くせなかった私に泣く資格なんてない。そう思った。
 私は今、仕事でもプライベートでも、新しいことに挑戦したり、挑戦する準備を進めていたりする。社会人経験を経て、いろんな人と出会い、いろんなことを学び、本やnoteの記事からいろんなことを吸収して咀嚼し、少しずつ成長しているつもりだった。勇気も出せるようになったと思っていた。それは自惚れや勘違いに過ぎなかった。穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。どんなに制度や施設設備、法律が整えられても、それを活用する人間が生かしきれなければ意味を為さない。悪用されれば善人が損をして悪人が得をしはびこるだけだ。今回、ワンテンポ遅かったけど、発車後にベストがわかった。せめて次の駅で私が勇気を出していれば、みんなが幸せになれたんじゃないか。バリアフリーマップを作ったり、バリアフリーやユニバーサルデザインをあんなに勉強したりしてきたのに、車椅子選手の話を生で聴いて新聞に投書までしたくせに、私は肝心なところで勇気を出せず、頭の中に浮かんだベストを実行に移せなかったのだ。今も悔しくて、本当に胸が痛い。この胸のつかえが下りるのは少し先のことだろう。喉元過ぎれば熱さを忘れると言うが、今回のことは決してそうしたくない。今回の悔しさをバネにして、同じようなことがあったとき、動いて声を上げられる人間になりたい。そう強く思っている。思うだけでは変われないから、身近なことから勇気を出して今までしてこなかったことにチャレンジしたい。その積み重ねがきっといつかの動ける私を作ると信じて。
 電車に乗っている人は、きっといろんな事情を抱えている。妊娠されたばかりでお腹が目立たず、何かされることを恐れてマタニティーマークを付けていない方が、座れず赤ちゃんを守るために手すりを持って壁際にいるかもしれない。体の内部に病気を抱えていて、座れず手すりや壁際に立たないとしんどい方だっているだろう。残業で疲れきって壁にもたれないとやってられないと思っている人もいるだろうし、背が低くてつり革に届かず自分の身を守るために手すりを持っている人だっているはずだ。こんな私が言えた義理ではないし、noteのクリエイターの方々は聡明な方ばかりだと思うから釈迦に説法になるが、いろいろな事情を考慮に入れた上で、あえて言いたい。一緒にゆずりあいませんか? これは、車椅子に限ったことではない。それこそベビーカーを運ぶ方にも、体調が優れない方に対しても同じだ。同情とか自己満足でなく、いや、なんならそれでもいい。自分だって、誰かに助けてもらうときが絶対にある。私は熱中症になったりめまいを起こしたりしやすく、過去たくさんの人に助けられてきた。その温かさに救われた。その温かさを伝染させたい。私も他の誰かの役に立つことで恩返しをしたいし、ただお互い様と思って助け合いたい。今回はできなかったけれど、すぐには変われないかもしれないけど、変わりたい。少しでもお仲間が増えてくだされば、社会をちょっとずつでも動かせるんじゃないかと思う。人一人に何ができるかって、大それたことはできないかもしれないけど、誰か一人の役に立てるかもしれない。その助けられた人がまた誰かを助けるかもしれない。こんな説法みたいなことを私が言うのは向いていないかもしれないけど、今日どうしてもこの胸の濁流を放流せずにはいられず、ここに認めることを許してほしい。そしてどうか、私に一歩踏み出す勇気を分けてくださいませんか?

サポートしてくださる方、ありがとうございます! いただいたサポートは大切に使わせていただき、私の糧といたします。