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紙飛行機に思いを乗せて

ベランダの手すりに体を預けて、ぼんやりと空を見上げていた。
雲に覆われた空がどこまでも広がっている。
運動音痴で電話相手もいない、お酒も飲めない私には、こうして黄昏るくらいしか、やり場のない思いを霧散させる方法が浮かばなかった。

「お姉さん、ごめんなさい。それ取って!」
下の方から少年の声が聞こえる。ボール遊びでもして、勢い余ってしまったんだろうか。
「ねえ!ベランダのお姉さーん!」
少年の方を向くと目が合う。私か。
「え。どれ。」
「そこにね、紙飛行機が飛んでいっちゃったの。青い紙飛行機、ない?」
辺りを見渡すと、青い折り紙で作られた紙飛行機が、床に落ちている。
それを拾って、少年に向かって飛ばす。
風に乗ったそれは、悠々と空をはばたき、少年の手の中にすっぽりと収まった。
「はい。気をつけなよ。」
「うん、ありがとう。ねえ、お姉さん、ひとり?」
「そうだけど。君は。」
「ぼくも、ひとり。」
「友だちいないの?」
「けんかしちゃったんだ。だから、ひとり。」
なんだ、友だちいるんだ。ほっとしたような、物寂しいような気持ちになる。
「そっか。君はその子と仲直りしたいの?」
「うん。でも、大嫌いって飛び出してきちゃったの。だからもう」
少年は、今にも泣き出しそうに、顔をくしゃくしゃにしている。
「じゃあ大丈夫だ。仲直りしたいっていう、その気持ちをちゃんと伝えな。真心込めて伝えれば、きっと伝わるよ。」
「本当?」
「きっとね。」
「そうかな、許してくれるかな。」
「真剣に謝ってごらん。」
「わかった、仲直りしてくる!」
「いってらっしゃい。」
紙飛行機を大事そうに抱えた少年は、一目散に駆けていった。

「ブーメランだなぁ…」
私は独り言ちて、額を手すりに擦り付ける。

***

仕事に疲れ、会社を辞めて久しい。
転職活動を続けること数ヶ月。
会社員時代からずっと支えてくれていた彼に八つ当たりをし続け、とうとう愛想を尽かされた。
彼と過ごした最後の日。
「体にだけは気をつけて。大丈夫、藍はきっとぴったりの場所に出会えるよ。焦らないでいい。ゆっくり休んで、また始めたらいい。」
別れの時まで優しい彼は、そう言って扉の向こうへと消えた。
私は返事もできないまま、呆然と扉の前に立ち尽くしていた。

今日は、あれからちょうど半年。履歴書に向かいながら時計に表示されたカレンダーを見て、何とも言えない気持ちになり、気がつけばベランダにいた。
空でも見たら少しは気が晴れるかと思ったが、だだっ広い空を見ても、ちっぽけな自分を痛感するばかりだった。

***

パタパタパタ。
「お姉さんっ!」
「どうだった。」
「仲直りできたよ!」
満面の笑みで報告してくる。全身で安堵と喜びを表現していて、思わず顔がほころんだ。
「そっか。よかったじゃん。」
「お姉さんが、大丈夫って言ってくれたから、ぼく、がんばったよ。」
「えらいえらい。」
ああ、よかった。素直で、純真無垢な少年が、曇りのない眼でこちらを見つめる。キラキラした瞳が眩しい。

「これ、あげる!」
そう言って、あの紙飛行機を飛ばしてきた。
悠々と翼を広げて飛び込んでくるそれに、目を奪われた。
しばしの後、それを掴む。
「ナイスキャッチっ!」
「いいの?大事な物なんじゃないの。」
「それ、虹輝、あ、さっき言ってた友だちがくれたの。虹輝に、お姉さんにあげていい?って聞いたら、いいよって。お礼、迷惑?」
「いや、大事にするよ。君、名前は。」
「晴翔!」
「はると、ありがとう。」
「ぼくこそありがとう!じゃあね!」
そう言った少年の姿は、瞬く間に小さくなった。

いつの間にか、晴れ間がのぞいていた。

***

紙飛行機を玄関の棚に飾る。
そこだけ、薄暗い玄関で淡い光を放っているように感じた。

私はあれから、彼への消えない思いを抱え続けている。
どうして、あの優しい彼をもっと大事にできなかったのだろう。せめて最後にありったけのお礼を伝えられなかったのだろう。悔いても悔いても時は戻らない…

そんな私にも、はるとの未来を、明るい方向へと導く手助けができたのだろうか。彼にもらった優しさを、少しはあの子に渡せただろうか…

私はこれからも、自業自得の痛みを抱え、共に生きていく。今から先に進めたとしても、また、間違うかもしれない。
けれど、自由に飛ぶこの紙飛行機をお守りに、一歩踏み出したいと思った。
過去は戻らないが、未来は変えられる。

優しい彼の幸せと、あの少年の輝かしい未来を願いながら、履歴書との睨めっこを再開した。

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