見出し画像

あやまり方の授業

先日、河村たかしについて書いたが、河村たかしもそうだし、張本勲もだろう。さらにこれまた先日書いたDaiGoも当てはまるのかもしれない。もちろん、そのDaiGoと全部大文字のウイッシュの方を取り違えた某記者も当然当てはまる。

とにかく感じるのは「何でこんなにあやまるのが下手なんだろう」ということである。

実際、あやまる、というのは本当に難しい。

下手なあやまり方をしたら火に油を注ぐことになるのは冒頭の人たちの謝罪を見るだけでもあきらかで、インターネットやテレビ越しではない、面と向かっての謝罪もやはり、異様なまでに気を配らなければならない。

以前、渡部建の謝罪会見はあまりにも難しいものだった、あの会見の「たったひとつの正解」は相方の児嶋一哉を同席させることだけだった、と書いたことがある。

かなりそもそもの話だが、本当に、心の底から悪いこと、と思っていれば、問題になるような行動はしないのである。いわばモラルの問題だが、モラルというのは時代によって常に変化し続ける。そのアップデートが上手くいかなかったり、現在の世の中のモラルについて鑑みる努力を怠った人が<炎上>という結果を招いているのだ。


あくまで私見を書く。

正しい正しくないは度外視して、ここまで名前を挙げた人がやったことは犯罪ではない。そしてたいして問題視されない時代もあった。つまり「世が世なら何のお咎めもなかった」ことといえるのである。

きっと、彼らの中に「たしかに良い行為ではないし、言葉足らずもあったかもしれない。しかし、これがそこまで、失職を余儀なくされるほど、悪いことなのか・・・」という気持ちがあるのは間違いない。

しかしそういう本心は、わりと簡単に見透かされる。ああ、コイツ、悪いことしたって自覚がないな、と。

「反省の色がない」と見透かして許せない気持ちになるのはよくわかる。しかし同時に「それほど悪いことなのか」となる気持ちも、実はわかるのである。

多少でも社会経験があれば「どれだけ公平に考えてもこちら側は悪くないのに謝罪しなければならない」事態があるはずで、それを想像すれば容易に理解できる。

それでも謝罪が必要な場合は、その気持ちを整理しなければいけない。
張本勲のケースが一番わかりやすいが、気持ちの整理がつかないまま、スタッフから「とりあえずあやまってくれ」と促されて、無理矢理言葉を発したのだと思う。

これが一番マズい。もちろん「なるべく早く謝罪を」となるのは当然だし、渡部建の場合は完全に引っ張りすぎて、より謝罪が難しくしてしまった側面もあるからこれまた難しいのだが。

ではどうするべきなのか、であるが。
まず、とにかく、プライドを引っ込まさせる。
とにかくプライドをかなぐり捨てた、というのが垣間見えたら、とりあえず相手は許す方向に行く。

謝罪で相手が余計に怒る事態になるのは、たいていの場合、プライドから余計なひと言を付け加えてしまうケースだ。余計なひと言は言い訳ばかりではない。本当にプライドをかなぐり捨てていればまず出てこない細かい言い回しも含まれる。

こう書くと「自尊心をすべて捨てろというのか」という声が聞こえてきそうだが、最低限の自尊心は守って、それでいて相手が納得出来るほどプライドをかなぐり捨てるというのはたしかに難しい。結局はバランスの問題なのだが、難しいことには違いない。

小学校の道徳の時間に「悪いことをしたらあやまりましょう」というのがある。今は知らないが昔はあった。

でも具体的なあやまり方を授業で教えることはないし、道徳の場合はテストがあるわけでもない。つまり、少なくとも学校では「あやまる」ということは教えてないということになる。

でも、あやまり方ほど、実社会に出て役立つものはないのだ。というか、それこそ「涙」「土下座」「同じことしかいわない」などが「一見有用なようで実は無意味である」ということは是非学校で教えるべきだ。

人が「許す(赦す、かもしれない)」理由は涙とか土下座のような表面的なことではない。

ナイナイの岡村が許されたのは矢部が説教した、というよりは「矢部が岡村のプライドをズタズタに切り裂いた」からなのだ。

当人はテンパってそんなことを考える余裕はないかもしれないが、せめて援護射撃をするつもりなら、そこはわかっておかないと、と思うのだが。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?