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『どっちが悪いかは聞いてない』 終戦記念日に寄せて



終戦記念日だそうだが、少しだけ戦争のことを書いてみたい。
とはいえそんな大袈裟なことを書こうってんじゃないので気楽な気持ちで読んでいただければ幸いだ。


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これは有名なドラえもんのセリフだが、正直この言葉を否定するのはかなり難しい。いや、戦争まで話を広げるから余計に難しいのであって、もっと身近なことなら噛み砕きやすいと思う。

例えば、誰かと誰かが揉めてたとしよう。そして片方から相談されたとする。


ま、たいていは、相談する側は仲裁をして欲しいのではない。はっきりいえば「味方が欲しい」だけなのだ。つまり「私は正しい。相手が間違ってる」というのを同意して欲しい。目的としては「仲裁」ではなく「自分側に加勢」して欲しいのである。


私ならきっぱり断る。いや本気で仲裁して欲しいというのであれば力になろうと思うが、加勢なんてただ巻き込まれるだけだ。冗談じゃない。

揉めた当人はとにかく加勢を欲しがる。変な話、数が多ければ多いほど良い。自分は間違ってないという自信があるのでどんどん増やそうとするのだが、相手も同じことをしたら、とは考えないのであろうか。


仮にAとBとして、Aに100人、Bに100人加勢がついたらどうなるのか。もうこれは揉め事では済まない。抗争だ。博徒の出入りと何ら変わりがなくなる。

もしこれが「加勢」ではなく「仲裁」ならば、もっとも信頼できる友人ひとりに相談すれば十分なのである。


味方になって欲しい、という心理は「解決する気などない」と見做し得る。自分が正しいことが証明できればそれでいいのだ、と。


ここでドラえもんの言葉を思い出して欲しい。


揉め事が起こった、ということは、間違いなく相手も「自分が正しい」と思っているのだ。となると仲裁というか、その場を治めるには両者に「自分が正しい」という意見を引っ込ませるしか手がないである。

と書くと「自分の方に責任がある」と思い込ませようとするのか、と思われるかもしれないが、そういうことではない。


仲裁する上で一番大切なのは、どっちが悪いかなど何の関係もないのである。喧嘩両成敗で両方が頭を下げるのが正しいとも思わないし、もちろん仲裁役が「こっちが正しい、こっちが間違ってる」と判定なんかしちゃいけない。裁判官じゃあるまいし。

では仲裁が何をするかというと簡単だ。いや実行するのは簡単ではないが方向性としてはわかりやすい。


今後、同じ問題が起きないようにするためにはどうすればいいか


それだけである。


揉め事を機に仲良くなる必要もない。もし「距離を取ることが最善の再発防止」ならば、そんな結論でも構わない。むろん、お互いがお互いを理解し合うのが理想だが、仲裁役が理想を押しつけるなどもってのほかだ。

ここで誤解のなきように説明しておくが、信念に基づいて行動するのは大切なことである。
しかし、きわめて残念なことに、私が関与した揉め事は双方ともに「意固地になってるだけ」か「そもそも双方、最初からお互いを見下していた」かのどちらかであった。


もし「最初からお互いを見下していた」のが理由ならば、良いきっかけだ。金輪際、お互い、一切の接触を止めた方がいい。上辺で付き合ってても何も良いことはないのだから。

以上、これが私の戦争論である。
あえて物事を矮小化してみたのだが、人間がやる以上、二者間による揉め事も国同士の戦争もさして変わりがない。


ただひとつ、いえることがあるとするなら、あんまり周りを巻き込まないことだ。当人同士が揉めるのは勝手だが、無関係の人間を巻き添えにしない、という最低限の配慮も持てないのであれば、そんな人間が正しいわけがないと思うのだが。



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