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母はしばらく帰りません 14

 母の作った豚の生姜焼きは、涙が出そうなほど美味だった。豆腐のお味噌汁や白いご飯など、それまではほとんど義務的に食べていた物が、こんなに美味しいことを、輝子は初めて知った。

「あんれ、まあー。こらあ美味しいわねえ」
と、マギーも舌鼓を打った。

「どう、アンドリュー? 久しぶりの味は?」

「うん、美味しいねえ」
 祖父はしみじみと言った。いつもは食の細い人だが、今日は自分のリクエストだけあって、常より箸が進んでいるようだ。その箸使いが綺麗だと、輝子は思った。

「君のお母さんが作った料理を思い出すよ」

「お母さんは料理上手だったもの。私なんてまだまだよ」
と、母は照れながら、でも嬉しそうだった。

「いやいや、そっくりだ。僕はこのお肉の下で、肉汁とソースが沁みた玉ねぎが大好きなんだよね」

「知っているわ。お母さんはいつもアンドリューの分だけ、玉ねぎを大盛りにしていたもの」

「でも喧嘩をすると、玉ねぎだけになるんだよ!」
と、祖父は珍しく大きな声で笑い出し、母も輝子もつられて笑った。
 それは輝子と母はこの家に来て、最も和やかな時だった。

「そんでなあ、あんた、旦那さんはいつこっちにくるんかね?」
と、さっさと食べ終えたマギーが、唐突に言った。それは母に向けられた言葉だった。

「前にも言ったけれど、私の夫は来ませんよ。忙しいのだから」
と、母は半ば吐き捨てるように言った。

「あれえ? 何でだべ? あんたがたはこっちに来て、もうどれくらいになるよ? 働いている旦那さんを置いて、妻と子供が遊び回っているって、どういうこったかね? 子供だってお父ちゃんにあいたかろうもん。何であんたは父親と子を引き離すような真似をするとね?」
と、マギーはいつものように早口の訛りの強い言葉でまくし立てた。

「母さんと私は夏休みなんだよ! 休みに遊んで何が悪い!」
 輝子はもう黙っていることが出来なかった。反射的に立ち上がって大声を出した。

「ん? なんだって、お嬢ちゃん? あたし、よく分からんかったとよ」
と、優しい声で言って、輝子の肩を撫でた。

「どうしたね? もうご飯はいいか? お腹いっぱいか? 今アイスクリームを持って来てやろうね」

 輝子は黙って首を横に振り、椅子に座った。

「マギー、私たちは夏の休暇に、私の父を訪ねて来ただけよ。私の夫は今回は来ません。私の夫が働いていようが、私が遊んでいようが、あなたには一切関係のないことよ」
と、母はきっぱりと言った。

「何で、今まで一回も来んかったとね?」
 マギーが低い声で囁くように言った。

「え?」

「あたしがこの家に来てから、あんたらがミスターを訪ねて来たのは、初めてだがね。手紙とか電話もほとんど来ておらん。あたしは知っとるとよ。なんでね? あんたは娘やろうが。なんで国に帰って来てお父さんの世話をせんとね? なしてミスターを一人ぼっちにしとくとね!」

 マギーの言うことは滅茶苦茶だと、輝子は思った。外国に住んで、家庭を持っている母が、少し体が不自由になったとはいえ、まだ若く矍鑠としている父親の為に、帰国してずっと側にいてやるのは難しい。ましてや不仲だった過去がある。それに今は亡くなったが、数年前までは父には再婚した妻が側にいた。
 手紙だって電話だって、全くして来なかった訳じゃない。でもそれを他人に、いや、「父の世話をしてくれている」他人に、
「あんたはそれで充分なことをしているつもりか」
と、詰られれば、もう言い返すことも出来ないのだった。
「もっと何かしてあげるべきなのに」と、心の隅に隠されている罪悪感がチクチクと刺してくる。
 しかし母はそんな動揺を見せることはなかった。

「そのことについて、あなたと話し合うつもりはありません」
と、背筋を真っ直ぐ伸ばして、宣告するように言った。
 輝子はそっと祖父の顔を盗み見た。器用な手つきで、黙々と箸を口に運んでいる。まるで何も聞こえていないように。
 昼間の時と同じだ。

「ミスター、今日はあんた、風呂に入らんといかんよ」
と、マギーが唐突に言った。強引に話題を変えた感じだ。もしかすると母の怒りが怖かったのかも知れないな、と輝子は思った。

「おお、お風呂だね。うーん、面倒だなあ。あははは」
と、祖父は乾いた笑い声を上げた。

  聞こえているんじゃん、耳。と輝子は呟いた。

「また、そげんこと言ってから、もう! あたしを困らせようとして」

「あはは、そう言うつもりじゃないよ」
と、どこか下手な芝居でもやっているような二人をよそに、母は輝子のお皿を覗き込んで、
「テルちゃん、ご飯おかわりしようか? お肉もまだたくさんあるよ」
と、いつものように微笑んだ。急にギュッと抱きしめてもらいたいような気持ちになった。

 いや、赤ちゃんじゃないんだから。口に出そうになった言葉を飲み込んで、代わりに、
「うん。おかわりちょうだい! お肉ももっと!」
と、元気よく言った。

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