【小説】 母はしばらく帰りません 29
近いうちに飲みに行きましょう。
なんてただの社交辞令だと思っていたら、次に日にはもうマティアスから電話があった。
家が近所ということもあって、最初とその次くらいまでは、キムやザラも一緒だったが、二人だけで会うようになった。彼がそう望んだからだ。
キムが言った通り、自分に特別な関心があるのだと知って、輝子は心底驚いた。
そして彼は、やたらに数多い友達や仲間との集まりに、しきりと輝子を連れて行きたがった。
決して美人ではない、特に社交的でもない、ただ酒好きな十歳も年上のガールフレンドを、まるでやっと捕まえた珍獣か宝物のように、見せびらかして得意になる男の心は、輝子にはチンプンカンプンだった。
だから聞いてみた。
「何で私と付き合おうって思った?」
するとマティアスは、まだ会ったばかりの頃だけど、と照れ臭そうに言った。
「金曜の夜に、どこかのパブで待ち合わせていたのに、俺が一時間以上遅れたことがあったよね?」
「うーん? あったかね、そんなこと。忘れた」と、輝子の記憶には残っていなかった。酒場で待ち合わせていて、少しばかり遅くなることくらい、よくあることだ。
「電話を忘れてきてさ、連絡も出来なかったんだ」
「ふん、それで?」
「俺がやっとついた頃には、店は激混みで超焦ったんだよね。でもテルは隅っこのテーブルで、ギネスなんかを飲みながら、新聞を読んでいた。俺を見つけて、よう、ピーナッツ買って来てよ、って言った。それで俺は、なんて素敵な子だろうって思ったんだ」
と、マティアスはうっとりとした顔で言った。しかし輝子には訳が分からなかった。
「は? なんで? 何が? ピーナッツが好きだから? それとも混んでいる酒場でもテーブルを確保出来るから?」
それなら得意技だった。コツは、例えテーブルが見つからなくても、立ち飲みを楽しめる気概だ。
そう言うと、マティアスはくすぐったそうに笑った。
「そうだね。テルと一緒なら、どこにいたって楽しいよ。でも俺は今まで、金曜の夜にパブで待たされて怒らなかった女の子を知らなかったよ。少なくとも、機嫌を直してもらうのに、たくさんの時間と努力が必要だった。まあ、当たり前だけどね。そんなとこで一人で待たせちゃったんだからさ」
「なんで? 吹きっさらしの戸外とかじゃなくて、暖かくて酒が飲める室内じゃないか。そりゃあ、遅刻は良くないよ。けど、わざとじゃないんだからさあ」
「俺はね、テルのそう言うところが、大好きなんだ」
マティアスは、優しい顔で微笑んだ。彼の言うことは、いまいち理解出来ていなかったが、それでも輝子は嬉しかった。
自分は特別だと、彼は言ってくれたのだから。
けれど結局この男は、混んだ酒場で一人待つなど我慢ならない女のところへ行ってしまうのだが。
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