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【小説】 母はしばらく帰りません 28

 家に帰って寝ておいで、と勧める輝子に、タマールは珍しく頑固に、
「今日は、僕はここで君たちを守るんだ」
と、言い張った。しかしやはり疲れていたのか、病室を移ってから間もなく、ベッドの側の椅子に窮屈そうに丸まって、安らかな寝息を立て出した。

「お疲れさん」

 輝子は自分のガウンを着せ掛けてやったが、やはりタマールの体には小さ過ぎて、何だか痛々しい。
 身動ぎもせずに眠っていたルチアが、いきなり泣き出して、輝子は飛び上がった。心臓が飛び出すかと思った。
 慣れない手つきで、おっかなびっくりオムツを替え、そっと胸元に抱き寄せると、すぐに乳首に吸い付いて元気に乳を飲み出した。

 どうやら勘のいい子らしい、生まれてからほんの数時間なのに、もうこんなに上手に乳が飲める! と、輝子は誰彼かまわずに自慢して回りたい気分だった。
 ゆっくり時間をかけて、お腹いっぱいになったルチアは、そのままウトウトと寝入りそうだ。ゲップをさせるために、肩にかけたガーゼの上に、そうっと小さな体をもたせかけようとして、カタンと小さな首が傾いた。輝子は悲鳴を上げそうになった。

 なんて頼りない、小さな体なのか。

 数ヶ月前、お腹にいたこの子が女の子だと知らされて、ほんの少しがっかりした気持ちと、不安を思い出した。

 女の子で大丈夫だろうか?

 ちゃんとみんなに可愛がってもらえるだろうか? 

(だって私より弟の方が明らかに愛されていた)

 私に似てしまったらどうしよう?

(母はキンタローと呼ばれた私を世界一可愛いと言ったけれど)

 そして、マティアスも。

「女の子かあ。うん、どっちでもいいんだよ。元気だったら、どっちでも。でも男だと思い込んでいたから、ビックリしたんだ。女の兄弟がいないから、想像がつかなくて、とまどったけど。いいよ、いいよ。女の子も楽しみだ……」
と、明らかにがっかりしていた。

 そういえば、それまでは子供が大きくなったらサッカー観戦に連れていきたいとか、ヨットを教えたいとか、ボルダリングを習わせたいとか、夢を語っていた。

 つまらない男だ、と輝子は初めて心の底から夫を軽蔑した。

 男でなければサッカーが出来ないのか? 女の子にヨットは操れないのか? 

 だったら一人で壁に登っていろ! 

 そして、そんな男の言葉や気分に、一喜一憂していた自分が、一番くだらない……!

 男だろうが、女だろうが、どうでも良かったのだ。

 何とも馬鹿馬鹿しい悩みだった、と今になって分かった。

 おばあちゃん助産婦が言ったことは本当だった。

「大丈夫よ。この子が生まれたら、他のことはどうでも良くなるから」

 この子の父親が居なかろうが、クズだろうが、どうでもいいことだ。

 まるで、長い雨がようやく止んで、青空が顔を覗かせたように、爽快な気分だった。


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