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巡り合わせ

 十一月に買ったリクルートスーツは春冬用でとても夏に着られたものではなかったが、いつまでも内定が貰えなかった私は六月になっても汗だくになってオフィス街を歩き回っていた。

 面接は50社目を過ぎたあたりだったが、その日の面接も空振りの雰囲気が漂っていた。卒業まで内定がでなかったらその先どうするんだろうか。同期が次々と内定をもらう中で浮上したこの問題は、たちまちくらくらした非現実感をもたらす。バス賃を浮かすために駅から歩いて帰ったので、下宿についたころには、スーツに汗染みが浮かんだ。

 日が暮れて、薄汚れたアパートの入口は白々とした照明の光を受けていた。その下宿のアパートの入口脇にはゴミ捨て場があった。そこには、歴代の住民達が捨てていった壊れた家電、傾いた机、折れた傘などの雑多な品々が埃にまみれ長い間放置され続けていたが、その山の中に埋もれるようにして枯れて干からびた観葉植物が鉢ごと捨てられていた。

 人生、うまくいかないなら、いっそのことあべこべのことをしたらどうだろう。やけっぱち、天邪鬼な気持ち、何か色々なものに抗したい気持ちが突然どっと沸き起こり、その鉢を部屋に持ち帰らせた。

 その日の事はあまり覚えていないが、酒を飲み、ふざけて枯木に水やりをして寝入ったことを覚えている。次の日も朝から職探しで慌ただしかった。その次の日も。

 鉢を持ち帰ったことなどすっかり忘れたある日、何かの拍子に、ふと鉢に目を止めると、枯れ木の幹から小さな黄色の芽が芽吹いていたのを見つけた。

 捨てられた無価値のものにまだ命がくすぶっている。そんなことがあるのか。何かの間違いですぐに枯れてしまうのか。それともこれから花でも咲くというのか。

 それから欠かさずに水を与えるようになった。小さな芽は、少しずつだが確実に成長しているように思えた。芽がとうとう小さな葉の姿に変わった日には、すごいな、と思わず声に出た。毎日注意深く観察するようになり、いつの間にか自分の人生がうまくいかないことばかり考えることをやめていた。

 小さな葉は数を増やし、濃い緑の大きな葉になって明るくつやつやと輝いた。そのころようやく私は、雇ってくれる会社と出会うことができて、長かった就職活動が終わった。

 冬を迎えたある日、私を揺さぶるようなことが起きた。その植物の葉に白いシミが浮かんだのだ。小さな点が日に日に広がっているようにも見えた。何か病気にかかっているんじゃないか。深刻な病気だったら、どうしよう。

 うろたえて鉢を抱えて、小雨が降る中を花屋を探した。運よく通りの外れに花屋を見つけることができた。

 思えば人生で花屋に入るのは初めてだった。植物のみずみずしい芳香にくらくらしながら、私は店員の前で、言葉に詰まった。尋ねようにも、この植物の名前すら知らなかったから。鉢を見ながら、おずおずと切り出した。
「あのう。この葉の白いシミなのですが」
店員はこともなげに答えた。
「ああ。これは拭けば取れますよ」
「そうなんですか。病気じゃないんですか」
「たいした病気じゃないですよ。大丈夫」
「良かった。花や木のことを何も知らないもので。この植物のことも、実は名前すら知らないんです」
「ああ、これ『幸福の木』ですよ」

 そのときの私の気持ちといったら。どこの誰が、どんな勝手な理由で付けたかも分からないその名前。不意を打たれ、私はぼうっとなって、店員が怪訝に思うほど長い間その場から動けなかった。

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