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頼まれごと

 人から頼まれごとを受けて嬉々として動く性格ではないが、京都で過ごした大学時代にひとつだけ引き受けたことがある。Hさんからの頼まれごとだ。
 Hさんは大学の事務職員で、話好き世話好きな初老の女性。サークルの事務手続きでよく助けてもらい、いつの間にかすれ違えば挨拶をする仲になった。
 ある時、何かの雑談で、私が夏休みに実家がある岡山の妹尾(せのお)に帰省することを話すと、その次の日くらいだったろうか、Hさんが「お願いがあるんやけど」ともじもじしながら切り出した。
 Hさんのご先祖に関係する話だった。Hさんのご先祖は四国の蜂須賀家に仕えた侍だそうで、旧姓は瀬尾(せのお)という。親御さんからは、岡山の妹尾に関係すると聞いて育ったが、どのような関係かは詳しくは聞かないまま親御さんに他界されてしまい、今となっては何も分からない。
「よかったら、何でもええから調べてくれへん?」というご相談。日ごろお世話になっている恩返しがしたい気持ちがあり、二つ返事で引き受けた。
 妹尾は県道沿いの小さな街で、寺と水田の他は古い町並みと墓地があるばかり、何があるわけでもない地方の田舎である。私は親の転勤に伴って小学校五年生の時に住み始め、大学に進学するまでそこで過ごした。
 夏休みを迎え実家へ帰省した際に、町の図書館で郷土史について調べ、また公民館から紹介を受けた地元の郷土史家に会って話を聞いた。そこで分かったのは、私が知らなかった妹尾の歴史だった。
 夏休みが終わり学校生活が再開したので、私は事務室のHさんに会いに行った。Hさんは、心なしかやせられた様子だったが、女性にやせただの太っただの言うのは禁句だと思い、構わずに調べた結果を報告した。
 まず、妹尾の名前から。妹尾は平家物語に登場する、妹尾(瀬尾の漢字を使うこともある。)兼康という武将に由来するそうだ。「妹尾最期」という章も作られている。自分の住んでいた町が、誰もが知っている古典に登場することを恥ずかしながらこの時まで知らなかった。兼康は平清盛に仕え、源平の折には平家方として戦い、散々源氏を悩ましたという。また、兼康は、内政にも優れた手腕を発揮し、農業のための治水に尽力をして人々の暮らしを安定させたという話も残っている。
 兼康の最期は壮絶だ。平家方に忠誠を尽くす兼康は、源氏方に降伏したと見せかけて数多くの兵を打ち取り、追い詰められ捕らわれる前に親子ともに自刃して果てた。生き残った妹尾の一族は源氏の目を逃れてあちこちに隠れ住んだそうだ。
 蜂須賀家は現在の徳島県である阿波の国を治めた戦国大名。阿波は平家の落人伝説で有名な土地で、数多くの平家方の落ち武者が隠れ住んだという。こうしたことから、ひとつの可能性としては、阿波に逃れた兼康の縁者が戦国時代まで生き延びて蜂須賀家に仕えたのではないか、という仮説を立てた。Hさんは世が世なればお姫様だったかもしれませんよ、なんて言って私は話を締めくくった。
 このようなつたない調査結果ではあったが、Hさんは何度もお礼を言ってくれた。事務室を出る別れ際、振り返るとHさんはどこか遠くを見るようなぼんやりとした表情をされていた。窓の外では蝉が大合唱していたのを記憶している。
 それからHさんに会うことはなかった。なぜなら、私はある事情で事務室に行く機会が減ったのと、Hさんが春を迎えずにお亡くなりになられたからだ。病名は癌で、ご本人は病名を知らされることなくお亡くなりになったのだと聞いた。突然の訃報に信じられない思いがしたが、ふとあの頼まれごとのことを思い出した。
 もしかするとHさんは自分の死期を何となく知っておられて、ルーツについて知りたくなったのではないか。今となっては分からないが、それもまことにつたない私の仮説である。健やかだったころのHさんの笑顔を思い出して合掌した。

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