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みんなパラサイトして生きている

その週は大寒波がやってきて、数日間の朝の気温はー1,2度。相変わらず雪は積もらなかったけれど、さすがに地面はカッチコチ。そうなると牧草地にいる馬たちの飲み水が凍ってしまうため、氷を割って回るのが私の仕事のひとつとなる。ぬかるみよりは断然に歩きやすい、硬い大地を踏みしめて牧草地へ向かうと、白いカモメの集団が舞っているのが目に入った。

我が家は海辺にあるから、カモメが来ることは何も不思議ではないのだけれど、今まで牧草地にカモメがいるところを見たことがなかった。どこもかしこも凍っていて、いつもの餌場で収穫がなかったのだろうと思いつつ、そうか、と思い当たった。うちの家畜たちが脚を踏みしめて、えんやこらと耕した土の中から出てくる、ミミズがお目当てなのか。畑で耕耘するトラクターの後ろにカモメの集団が飛んでいるのを見かけることがあるけれど、それと同じである。他者がせっせと働いている傍で、ちゃっかりお裾分けにあやかろうという魂胆なのだろう。

パラサイトじゃん。


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そう思って周りを見回すと、冬だからよく分かるのだけれど、牧草地にある葉を落とした木々には、どれもヤドリギがくっついているのが見える(写真の背景にある、黄緑色の大きな鳥の巣のようなものはみんなそう)。樹木の枝に勝手に根を張って宿主から養分をもらいつつ、自らも緑色の葉を持って光合成をするという、半寄生植物。そんなパラサイト野郎なくせに、冬でも常緑のヤドリギは長寿と繁栄のシンボルとされ、フランスでは新年を迎えるために飾る、縁起物にもなっているのだ。

ちなみにヤドリギが、どうやって樹木の高い位置に根を張ることができるかというと、その白い果実を食べた鳥が、糞とともに出した粘着性のある種をお尻にぶらさげて、枝の上に運んでくれるからだとか。ヤドリギの生き方って、パラサイトの上にずいぶん他力本願ではないか。


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他の我が家にいるパラサイトと言えば、断然ネズミだ。うちにはニワトリ小屋があるのだけれど、その下のコンクリートを壊すほど、ネズミに掘られた穴が開いていて、たぶん地下はネズミの巣だらけ。もちろん、お目当てはニワトリ用の穀物のエサをくすねること。人間はニワトリのエサをネズミなんかに取られてたまるかと、あれこれ駆除方法を駆使するのだけれど、一時期いなくなっても、いつの間にか他のネズミが居座っている。

ちなみに我が家には、家の中と外を自由に出入りしている猫が2匹いる。この猫たちは、自分の仕事をちゃんとわきまえていて、時々ネズミを獲って来てはくれる。しかし、気が向かないと働いてくれないし、獲るのは小さな野ネズミばかりで、ニワトリ小屋の大きな家ネズミにはなかなか手が出せないよう。

さらに我が家には秋田犬が3頭いるのだけれど、この子たちも番犬としてはとても優秀だ。しかし日中、これらの犬猫が全員で昼寝をしている同じ部屋で、独りせっせと仕事をしている身としては、どうにも費用対効果が合わない気がしてならない。人間の身近にいて最もパラサイトに成功しているのは、その賢さと愛嬌で長年をかけて人間の生活に入り込んできたペットなのではないだろうか。うちも人の事は言えないが、今や人間並みに快適な生活を送る犬猫だっているのだ。

だから、自然界において他者にパラサイトすることは、ごくごく普通のことで、生きる術のひとつにすぎない。しかもパラサイトされた相手は怒ることさえもしないのだから。せっかく耕した土からカモメに土の養分となるミミズを盗まれる牛や馬、ヤドリギに取りつかれて養分を吸い取られる樹木、自分のエサをネズミに横取りされるニワトリまで、誰ひとり文句を言わない。

なぜならば、自然は共有するものなのだから。誰も「自分から伸びている枝は私だけのもの」とは言わないし、「自分が暮らしている牧草地は私だけのもの」とも言わない。ニワトリに関しては、「どうせ損をするのは人間なのだから、ネズミも一緒に食べよう」と、動物同盟を組んでいるのかもしれない。もちろん同種でテリトリー争いはあるだろうけれど、そこを避ければ他にも住む場所はいくらでもある(人間によってその範囲が侵されていなければだけど)。

そして、生き物はお互いに、相手の生きる権利を認めているからだとも思う。誰もが食べる側、食べられる側になり得るのだし、だからこそ、食べられる時には観念して、自分の命を他者に差し出すことができる。もしかしたら、自分の命さえも個人所有しているつもりはないのかもしれない。

何にしても文句をつけるのは、勝手に所有地を決めて侵入者たちを追い出そうとする人間だけだ。優遇される家猫に対して、冷遇される野良猫や外猫を見てもはっきりしている。どこもかしこも土地には所有者がいて、猫さえも自由に散歩できる場所なんて今やほとんどない。

少し前に流行った「パラサイト・シングル」は、ウィキペディアによると「学卒後もなお親と同居し、基礎的生活条件を親に依存している未婚者」のことで、現在でもその数は増えているという。小学校から大学まで神奈川に住んでいた、まさに就職氷河期世代である私の知人にもいる。都心の仕事場に通える距離だったこともあり、30代まで実家にいた子も多い。その後、結婚しなくてもひとり暮らしになった子もいるし、今でも実家にいる子もいる。給料の多くを取られるのが家賃であり、しかもドブに捨てるようなバカバカしさを考えれば、ひとり暮らしをするよりも実家を選ぶ気持ちも分かる。

今でも実家で暮らしている知人は、働いているけれど、親元にいるのは快適だし、今後も結婚をする予定はまったくないと話す。もちろん、親の老後を見る覚悟はあるだろうし、そうなると実は親にとっても子供が同居してくれることは決して悪い話ではないのだ。特に現在のコロナ禍においては、実家で暮らしていることで、親子ともに救いになった人も多いのではないだろうか。



親と同居という考えがそもそもないフランスでは、同居の未婚者は少ないけれど、まったくいないわけでもない。私が住んでいるノルマンディーは田舎でもあり、周りには小規模農家がまだまだたくさんある。中でも農家を継いだ60代の知人男性は、弟とともに未婚で数年前まで母親と3人暮らしをしていた。弟は精神的に問題があったこともあり、働くことはなく、家の中にいるだけで家事も何もしない。でも親からもらった農家を1軒他人に貸し、家賃収入を得ていた。

だから80代まで、息子2人の面倒をみていたのは、母親である。結局、弟は心臓に持病があって突然死したのだけれど、母親も随分前に発症したパーキンソン病の症状が悪化し、コロナの前年に老人ホームに入った。あの弟が生きていたら、男2人暮らしとなった今頃、どうなっていたのか想像もつかないけれど、自営業の実家がセーフティーネットになっていたことは確かだろう。

上記のウィキペディアにもあるけれど、著書は読んでいないが提唱者の山田昌弘氏の「パラサイト・シングルはサラリーマン社会特有の現象」という説に、私も同感である。今や認知度が高くなった発達障害だけれど、昔だってすべての人々がみんな、同じように働けたわけではないと思う。もちろん中には働けるのに働かない怠け者がいたとしても、家業を営む家ならば、そんな自分の子供にも働く場を与えることができたはずだ。

でも、サラリーマン家庭が主流になり、家から出て外で働くことが当たり前になった。お金を稼いで生きていくことは、個人の問題ともなったのだ。さらに就職氷河期と呼ばれる時代に入り、就職先が見つからず、または見つかったところで非正規、低賃金。結婚することもままならず、実家に住み続けていると、「パラサイト・シングル」と呼ばれる羽目になる。身内である家族を頼りにしても、悪く言われる時代になったのである。

家人のファンファンのお父さんは数年前に亡くなってしまったけれど、とても独特な人だった。食料品店を営む家の生まれでひとり息子だったこともあり、かなり過保護に育てられたらしい。大学教授になったけれど、親からもらった財産で小さな屋敷と広い土地を買い、馬数頭を飼っていた。亡くなる直前まで、週に1回、馬車に乗ってひと回りするのが習慣で、ファンファンが子供の頃は趣味で牛も飼っていたらしい。そんな土地や家、家畜を世話するために、実は亡くなるまで敷地内に使用人がいたのだ。

その使用人夫婦は、お父さんの住む屋敷の横にある一軒家を与えられて暮らしていた。最初の頃は、奥さんはお父さんの家の家事を手伝い、旦那さんの方は庭仕事などの屋外の作業をすることで、それに対する報酬はもらうけれど、家賃はなし。その後、子供が2人生まれるが、ある時から奥さんの方は体調が悪いことを理由に、家事の手伝いをしなくなる。そして旦那さんの方といえば他に勤め先はちゃんとあって、お父さんの家では週に1日数時間程度の労働だけでよかったらしい。こうして20年近くも家賃を払わずに、ひと家族が隣接する一軒家で暮らしていたことになる。お父さんとは縁もゆかりもない、赤の他人がである。

自分の子供たちにはとても厳しいお父さんで、人助けのために家をタダで貸すという感じの人でもなかった。ただ、金銭感覚も時代感覚もちょっとずれていたようで、いわゆる昔の貴族的な生活に憧れていたのかもしれない。貴族社会であった頃は、生まれながらに金持ちで働く必要もない貴族たちが、使用人などの雇用を生み出し、彼らの衣食住の生活保障もしていた。雇用主によって労働条件は雲泥の差があっただろうけれど、血縁関係だけでなく使用人たちを含めた大家族を、家長はまとめて面倒を見ていたのである。ファンファンのお父さんとしたら、そんな家父長制の感覚だったのかもしれない。

しかし、そんなお父さんの死後に困ったのは息子たちで、さすがにその一家をこのまま置いておくわけにはいかない。これを機に家からの退去を促したところ、その家族はすんなり明け渡してくれたため、みんなほっと胸をなで下ろした。もちろん、相手はごねることもできたし、実は法的に訴えることもできたのである。フランスの法は賃借人に有利なようにできていて、例えば30年以上同じ場所に住み続けていると、賃借人でも所有者になることだってできるのだから。

これはもう、韓国映画「パラサイト」の世界である。



パク一家の豪邸の地下シェルターでひっそりと暮らし、時々地上に上って冷蔵庫から食べ物を盗んで暮らす地下の住人。その場に居合わせてしまった家の息子、ダソンはその後トラウマになってしまうけれど、金持ち家族にとっては、食料をちょっと盗まれるくらいの損失なんて、気がつきもしない。ライバルとなるキム一家が現れなければ、さらに長いこと地下に住み続けることができたに違いない。まさに、現代版のパラサイトである。

もちろん、「パラサイトする」ことを奨励したくて、こんな話を続けているわけではない。そもそも生物は皆、地球という惑星に共生もしくは寄生して生きている。食料も水もエネルギーも自然から得るしかない人間だって同じことだ。しかも、そんな地球環境を破壊し、汚染し続けているのだから、人類は史上で最も性悪なパラサイトに違いない。

今や貨幣と交換することでしか衣食住を得られない人間は、多くの人が自然と直接取引をする機会を失っている。そしてお金で買った生活必需品をすべて個人所有するようになり、核家族はさらに孤立する一方だ。だから、多くの人は自分の稼いだお金を使って独りで生きているつもりでいるけれど、他の生物同様、実際には独りでは生きていない。そして必要とあれば、助けとなる他者の力を借りてもいいのだ。それが本来の自然の姿である。

しかし、この個人所有で溢れる世界にあっては、他人の所有物を侵害する「パラサイト」でしか、生きる術をもらうことはできないのだろうか。実際、映画のように地下の核シェルターでこっそり暮らすわけにはいかないし、ファンファンのお父さんのように住居をタダで貸す人は多くはいない。実家に居座り「パラサイト・シングル」となれればいい方で、自分の家族に助けを求められない人だって多いことだろう。

となると、困窮から脱出するための最後の砦となる、生活保護をもらうことを躊躇する理由はどこにあるのだろう。何といっても、もらうのはただのお金である。この資本社会で、ほぼ唯一の生きる術である。

家族というセーフティーネットが崩壊し、お金がないと生きていけない社会を作ったのは、私たちではないのだから、貧困は決して自己責任ではない。ましてやコロナ禍の現在、職を失うことは社会全体の問題なのだ。それなのに、この場に及んで日本では生活保護利用者が増えないという。生活保護と聞いて持つ悪いイメージの上、受給者の資格があるかを家族に問い合わせる「扶養照会」が大きな壁になっているのだとか。



そして役所側の人手不足などにも問題があるという。



上記の資料は2010年の統計だけれど、生活保護の利用率はフランスの5.7%に比べて、日本は1.6%しかいない。他にも誤解されている生活保護制度についての説明が、とても分かりやすく書いてある。フランス人は高い税金を納めているのだから、困った時に国から保護を受けることは当然の権利だと考えているところから、そもそもの違いがあるのだが。

生活保護を受けることは決して恥ではない。そして生あるものは皆、生きる権利がある。「もののけ姫」のアシタカが言っている通りだ。


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「生きろ、そなたは美しい」


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