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【追憶 ~祖父の戦争と昭和~】


祖父の軍歴証明書

以前、父の故郷である広島の県庁から取り寄せた一通の封書があります。それは、今から79年前に太平洋戦争で亡くなった祖父の「軍歴証明書」です。

祖父が戦死したのは私が生まれる30年も前。もちろん会ったことはありません。父も当時まだ4歳と幼かったため、直接祖父の記憶はありません。

ただ、私も歳を重ねるにつれ、自身のルーツを知りたい気持ちが大きくなり、その会うことの出来なかった祖父がどんな人だったのか、何かしらの手がかりはないかと調べていたところ、当時の軍人なら「軍歴」が残っている可能性があることを知ったのです。「戦争中の記録からでも祖父の人となりが何か分かるかもしれない」という想いから書類を申請したのでした。

とはいえまず、「軍歴」自体が残っていなければ意味がないので、ドキドキしながら広島県庁へ問い合わせると、しばらくして「おじいさんの軍歴、存在していますよ」との有難い返答が。そこから私と祖父の関係を証明する戸籍などの必要書類を揃え、広島県庁へ申請し、待つこと2週間。心待ちにして届いたその証明内容は、一度も会うことの無かった祖父を知るのに十分なものでした。

其の1【支那事変】

祖父が初めて軍に召集されたのが昭和12年(1937)7月15日。
証明書には「応召」とありましたので、いわゆる「赤紙」での召集です。

ちなみに、この前週の7月7日には、かの有名な「盧溝橋事件」が起こっています。これは、中国の盧溝橋付近で演習をしていた日本軍(関東軍)に対して中国軍からの銃撃があり、これが最終的に「支那事変(日中戦争)」に結びつき、後の太平洋戦争へと突入するきっかけとなった大事件でした。実はこの黒幕は当時の共産系の中国学生が、日中軍を衝突させるために双方に向かって発砲した、という説もありますが、真相は未だ闇の中です。
ともかく、この事件をきっかけに、当時の総理大臣近衛文麿が7月11日から各地の師団を中国に送り込みます。多くの兵士が送り込まれた中で、応召兵は2/3にもなったと言われていますから、「お坊ちゃん総理」と言われていた近衛さんが、この時ばかりは「中国何するものぞ」とものすごい速さでたちまち臨戦態勢を引いたのです。

おそらく、祖父もその勢いの中で召集されたのでしょう。
その時、祖父は23歳。配属された部隊は「歩兵第八十連隊」でした。
証明書には、「○月○日に○○にて鉄道警備二服務ス」や「○日に○○を通過した」など、かなり詳細に部隊での経緯が書かれており、祖父の戦時中の足跡を追うに十分な資料となりました。

その後、祖父は召集解除される昭和15年1月までの約2年半で、合わせて6つの作戦に参加していたことも分かりました。その期間もそれぞれ約3ヶ月間おきに連続で作戦が遂行されたので、休みはほとんど無い状態だったようです。それらの作戦名も明記されていたので、中にはネットで調べると詳細が出てくるような大きな作戦もありました。もう、文章で読んでいるだけで大変な作戦だったことが伺えました。解除時の祖父は25歳。私が25歳の時なんて、何の苦労も無い甘ちゃんだったのに、時代とはいえ祖父はこんな激しい経験をしていたのか。。と改めて感慨深くなりました。

また、証明書に同封されていた兵隊の通知簿である「在隊間成績調書」を見ると、支那事変に参加し、兵役を勤め上げたものに渡される「善行証書」なるものが発行されており、そこにあった「人柄」の項目には「品行方正かつ誠実」と明記されていたことから、私が会うことも叶わなかった祖父の人柄を書面から伺い知ることが出来ました。

戦前、厳島神社での家族写真(右から二番目、坊主にスーツ姿が祖父)

実は以前広島へ赴き、唯一今も祖父のことを知る叔母(祖父の妹)に会い、祖父の人となりについて聞く機会がありました。

「あの人は正直でまじめな男じゃった。…むしろあれはまじめすぎたから戦死したんじゃ。もう少しうまく生きてりゃぁのぉ死ぬことはなかったんじゃ…」
という言葉がとても印象的だったんですが、この調書にもその言葉どおりのまじめな祖父の姿を見ることができました。

私が幼い頃、父から聞かされていたのは「おじいちゃんは太平洋戦争で亡くなった」ということだったので、まさか「支那事変」でこれだけ長い期間中国に赴き、戦争に参加していたとは思いもよらない新たな発見でした。ここまでは父も知らなかったようです。

其の2【太平洋戦争】

その後、祖父は昭和15年(1940)1月、日本へ引き揚げ、広島へ戻ります。そこで、祖母と出会い結婚し、私の父や叔母が誕生します。

その間の日本はというと、既に前年の昭和14年にドイツがポーランドに侵攻したことから第二次世界大戦が始まっており、その流れから昭和15年9月に日独伊三国同盟を調印。結果、日本は世界的に孤立し、その溝もどんどん深まっていました。その年から国内では「敵性言葉使用禁止(英語使用禁止)」や「ぜいたくは敵だ」の標語が生まれました。野球でも「ストライク」といわず「よし」、「ボール」は「だめ」と言っていたとか。とにかく横文字が片っ端から禁止され、徹底的に欧米を排除したのです。

そして、昭和16年(1941)8月、アメリカが日本に対して石油の輸出を禁止します。そこでアメリカとの関係決裂が決定的となったことから同年12月、日本軍は真珠湾へ攻撃をし、太平洋戦争が始まります。

祖父が再び召集されたのは、開戦から2年半後、日本の戦局が悪化の一途をだとっていた昭和19年(1944)7月。この時、祖父は29歳。祖母との結婚生活もわずか4年半という短さでの再召集でした。

配属されたのは、フィリピン方面を作戦地域とした「第14方面軍野戦貨物廠」。この部隊の最終司令官は「マレーの虎」と恐れられたあの山下奉文大将。そこに補充兵として赴任した祖父は、主に司令官や兵士など軍人の衣服や、食糧、医療品などを運ぶ役目だったようです。

この太平洋戦争において、日本軍とアメリカの決定的な認識の違いの一つに「補給」という概念があったかどうかだったとも言われています。要は、最後は物資がなくとも「大和魂」で乗り切るという根性論が日本軍の切り札でした。その結果日本軍は、各戦地で多くの餓死者や病死者を出してしまったのです。
日本は資源を獲得する名目でアジアへの侵攻を拡大したと言われていますが、結局領土を拡大しすぎて統制できず治めきれなくなったのです。つまり、石油を獲得するために石油を使わければならない流れになったと。。

そんな情勢の中で、祖父は物資を届けるため昭和19年9月中旬、輸送船「まにら丸」に乗り、福岡の門司港から出航し東南アジア地域を巡りながらマレーシア方面へ向かって航行しておりました。その頃国内では、B-29が初めて東京を空襲し、あの「神風特攻隊」が初出撃をはじめていました。

そして、出航から2ヶ月後の昭和19年11月25日午前5時、マレーシアのミリという街から北西160kmの海上で突如大きな衝撃を受け、船が傾きます。

それは、アメリカの潜水艦「ミンゴ」による魚雷攻撃でした。「まにら丸」は右舷に3発の魚雷を受けてしまいます。さらに、その魚雷により船内に積んでいた可燃物などに引火、誘引爆発を起こし、ほどなくして「まにら丸」は祖父を乗せたまま南シナの海底深くへと沈んでいきました。
祖父が30歳を迎えて一ヶ月目のことでした。

其の3【まにら丸とミンゴ】


まにら丸

ここで、祖父と運命を共にした「まにら丸」について調べてみました。
この軍歴証明書に明記されていたのは「死亡場所:南支那海 まにら丸海没」という一文だけでした。しかし、この「まにら丸」という船名が分かったことで、そこからネットで調べると前述のような最後の瞬間まで判明したのです。そして、さらに興味深いことが分かりました。

「まにら丸」は元々、大阪商船が所有する三菱製の大型貨客船で、主にブラジルへ移民を輸送する船でした。関東大震災のときは救援物資輸送にも活躍したようです 。建造が大正4年(1915)なので、この時点ですでに30年近くたった老朽貨物船でした。ちなみに祖父は大正3年(1914)の生まれなので、ほぼ同級生です。
その後、昭和16年に陸軍へ徴傭。そこから輸送船としての任務に就いたようです。


ミンゴ

一方、「まにら丸」を撃沈したアメリカの潜水艦「ミンゴ」。その後も幾度と無く作戦に参加し、そのまま終戦を迎え、戦後の1947年1月1日にその役目を終え、退役をします。

それから、8年が経った昭和30年(1955)5月20日。一度退役したはずの「ミンゴ」が再び就役します。
その目的は、前年に発足した日本の海上自衛隊に、なんと、この「ミンゴ」を訓練艦として貸し出すこと。自衛隊に引き渡された後、ミンゴは海上自衛隊初の潜水艦として「くろしお」 と改名されました。その後、この「くろしお」は昭和41年(1966)3月31日まで10年間ほど現役として活動し、数多くの海上自衛隊員を育てる役目を担ったのです。

貸与式典における「くろしお」

「まにら丸」を撃沈した敵艦が、戦後日本の為に貸し出されていたという事実に、大きな衝撃を受けました。

この「くろしお」はその後、役目を十分に果たし、昭和47年(1972)に解体されました。「くろしお」から得た技術はその後の潜水艦開発にも生かされているそうです。

ちなみに、この「くろしお」は現在、呉にある海上自衛隊史料館「てつのくじら館」にその模型や、貸し出された時の証明書、くろしおに搭載されていた計器類が展示されています。

以上、これが、祖父の軍歴証明書から判明したことです。

祖父が盧溝橋事件直後に支那事変に出兵していたこと。とてもまじめな人柄だったこと。太平洋戦争時に乗っていた船が「まにら丸」だったこと。その「まにら丸」を撃沈したのが「ミンゴ」で、終戦後はその「ミンゴ」が海上自衛隊に「くろしお」として貸し出され、日本へ潜水技術を提供し、日本を守るための多くの海上自衛隊員を育てたこと…

昭和はまさに激動の時代でした。戦争という理不尽が多くの人を巻き込み、多くの人を悲しませました。でもその理不尽さの一片がこうした歴史の不思議な因果を起こさせるのかもしれません。

「戦争はいけない」「戦争は悲しい」それは当然です。でもそれより、「なぜ戦争になってしまったのか」「なぜ祖父は戦争へ行かなければならなかったのか」を考えることが大切で、そのためにも歴史を知る必要があるのだと思います。

皆さんにも機会があれば、こうしたルーツを調べてみることをお薦めします。ご家族に話を聞いてみるだけでも、今まで知らなかった意外なファミリーヒストリーが分かるかもしれません。

※追記※
祖父が戦死して9ヶ月後の昭和20年(1945)8月6日。
人類史上初の原子爆弾が、故郷の広島に投下されます。
父の家は広島市から遠くの農村地域だったため被害を逃れましたが、当時4歳だった父はその時家にいて、あの「きのこ雲」を生で目撃しています。

「農作業をする祖母に大声で呼ばれて外に出てみると、市内の方に見たこともない真っ黒い入道雲が、地上から空に向かってすさまじい勢いで昇っていた。子供ながらに大変なことが起きていると感じた。」

あまりに強烈なその光景は、70年以上経った今でも忘れることができないようです。


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