見出し画像

私たちは、「値段」を知っていても、「価値」は知らない

「無料のお笑いライブやってます。冷房も効いています」

無料のお笑いライブ。

休みの日によく散歩する街の駅周辺で、若者たちが呼び込みをしている。幾度となくこの光景に出くわしている。ステージ自体を観たことがない立場で意見するのはルール違反だが、若者たちにこう言いたい。「無料でしか観る価値のない」と自分たちが喧伝している(ように見える)お笑いの舞台に、出会いがしらで通りがかった人が自分の時間を投資するかなぁ? 

時間は無料ではない。

冷たい缶ジュースをサービスでつけて300円。その方が集客力できるのではないか。これまでこの老婆心は伝えられずにいるのだけれど(と思って調べてみたら、若手芸人 PRの場で、各芸能プロダクションがお金を出し合っているため無料なのだそう)。

博報堂がつくる680ページ、価格が1円の雑誌。

世に数多あるフリーペーパー(0円)ではないと、値段にメッセージをこめる。私のまわりでは多いに話題になった。もちろんすぐに完売したし、その後、高値で取り引きされていた。

近所の古書店の前のワゴンには日に焼けた文庫本がいつでも100円で並ぶ。時に「ご自由にどうぞ」と本の山が積まれる。つまり無料。「無料でも山はなかなか低くならないものだよ」と店主。

需要があれば値段は上がる。

そろそろメルカリには、トイレットペーパーの芯の10本セットや飲み終わった牛乳パックの10個セットなど、普段はゴミ扱いされているモノに値段がつく頃だろう。お盆を過ぎれば、夏休みの子供たちの自由研究のための材料集めに親たちが動き出す。私は、この時期のそれらの出品や売れていく様を興味深く眺めている。

これから封切りされる映画『アートのお値段』の予告の中で、「多くの人たちは(アートの)値段を知っていても、価値は知らない」とコレクターは言う。

画像1

値段の不確実性は悩ましい。

値段で価値を推し量るのではなく、価値で値段を推し量れる自分でありたいな、と思う。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?