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私たちは「いいねシェルター」の中にいる⁉︎ 対話と「あいちトリエンナーレ」のこと

大学院で「対話」を扱う講義があり、ワークショップを体験したことがある。とあるテーマについて3人1組。1人は質問をする、1人はそれに答える人、1人はそれに耳を傾ける。それを5分間。それを1セットとし、役割を交替して3セット。

「対話」とは?

「対話」は、ただユラユラと話したいことを語り合う「雑談」とも、意見を戦わせる「討論」とも、落としどころを探す「協議」とも、相手に自分の意見に従わせるための「説得」とも、一方的に意見を語る「演説」とも違うと説明される。お互いの考えていることや価値観を理解し合うために。「正解を求めようとせずに」と何回も教授から念を押される。

そのルールの下、対話をしようとすると、まったくもってシタドロモドロ。なかなか要領を得ない。時間がもたない。皆で苦笑するばかり。互いが「ほぼ初対面同士だから」とも思ったが、もしかしたら友人とのほうがさらに難易度があがるかもしれない。互いに先入観があればあるほど、対話はきっと難しくなる。

そして、はたと気づくのだ。日常生活で、私はほとんど「対話」をしていないことに。

「対話」は、価値観が違う相手と互いのもつ意味を共有するために必要なプロセスだ。相手の抱える事情や背景に耳を傾け、その状況や考え方を理解ようと努力し、これまでとは違う眼差しで相手を認め、新しい関係性を築くためのプロセスとでも言うべきか。無意識に目が泳ぐ。例えば、そんな視線の動きも大切な対話の一要素に。時には、沈黙が対話になることもあるかもしれない。

アーティストが電凸を受ける意味

「表現の不自由展・その後」を含む「あいちトリエンナーレ2019」の全展示の再開を受け、あいちトリエンナーレではアーティストが電凸を受けるコールセンターが始まる。

作家と市民が意見交換する場などで何度か意見を交わしたことで、「意見は異なっても、対話はできた。抗議ではなく意見を伝えあえば、コミュニケーションは成り立つと思った」と語る。「たとえ意見が合わなくてもいい。異なる意見が電話という1対1のパブリック空間にのっている。その中で、お互いに、自分が『絶対正しい』と思っていることを、ちょっとでも疑うことができれば良いなと思います」

「なんという気概!」と思いながら、賞讃する気持ちで私は記事を読んだ。

“いいねシェルター”の中と外

インターネットやソーシャルメディアなしで生きられなくなっている私たちは、自分が「いいね!」した人や、その「いいね」と近い情報をアルゴリズムにより絶え間なく供給される。私たちは「いいねフィルター」、いや「いいねシェルター」の中に閉じ込められて生きている。世界はインターネットでひとつになったと言われるが、それで世界は広がるのではなく、狭くなる。

そうやって毎日繰り返し、同じような情報にばかり触れていたら、どうなるだろう? 著者はそれは偏食にも似ると指摘する。好みの食べ物ばかり摂っていれば、健康を損ねる。同じように好みの情報にばかり触れていれば――結果は明らかだと言えるだろう。

放っておけば私たちが受動的に受け取る情報はどんどん純度が高まっていく。それにより自分と同じ価値観だけで世界は形成されていると錯覚してしまう。

自分の中の「当たり前」を疑う

今回の「あいちトリエンナーレ」にまつわる一連の流れを、私はほぼTwitterで追っていた。先日、再開した『表現の不自由展』について、私のタイムラインはほぼ肯定的なツィートが占めた。

その中でシェアされていた下記の記事に私はハッとした。TAV GALLERYのディレクター、国内最年少ギャラリスト佐藤栄祐さんの記事だ。

抜粋して読まれることは佐藤さんの本意ではないと思うので控えるが、佐藤さんは、「誰しもがアーティストになれる時代になったら、誰も需要がつくれなくなった」。そうならないようにという真摯な思いから、あいちトリエンナーレのあり方に苦言を呈している。

その導入には、

これから関わるであろうアーティストが、道を誤らないため (迷わないため) に、この文章を公表したいと思います。決して正論を述べたい訳でもなく、業界の対立関係を悪化させたい訳でもありません。一見解としてご参考いただけたら幸いです。

と前置きがされている。まさに、「読み手との対話」を求めているのだと私は感じた。今回の「あいちトリエンナーレ」について自分が考える際には必ず思い出したい記事となった。

「対話」が必要な理由

世界には、まだまだ自分が知らない考え方や価値観、事実がたくさんがある。

「いいねシェルター」は心地良い。きっと、これからの時代は「いいねシェルター」の中の居住性はどんどん上がっていくはずだ。けれど、それは無意識のうちに他者の考えに自分の意思がフィックスさせられていくことに他ならない。

自分にはない他者の価値観を拒まず、否定せず、積極的に触れる。耳を傾ける。問いかける。調べる。そして、自分の頭で考える。それを他者とシェアし、押し付けることはせず、さらなる理解を互いに深める。面倒くさいことかもしれないけれど、その不断の努力が自由でいるための責任なのだろうと思う。





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