ワーママの大先輩、祖母から学んだ自分を満たす内省力

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最近100歳の誕生日を迎えた祖母から学んだことを最近振り返っている。飛び級制度で人より早く師範学校を卒業し、小学校教師になった祖母は、小柄ながらもいつも姿勢がシャンとしていて、見ていて清々しい。

いわゆるワーママ大先輩の祖母は、農家に嫁ぎ、教師をしていた。息子二人はばあやに預け、早朝から小学校に出勤。休憩時間にばあやが連れてきた乳飲み子に乳をあげていたという。いろんなことをテキパキとする印象の強い祖母は、朝ごはんも小鍋で自分のブロッコリーと卵を一気にゆでて食パンを焼いて紅茶を入れてさっと食べてしまう。これは退職して、私たち孫が家に遊びに行っていても同じで、自分の分だけ自分のペースで食べる。

「何かあるからお好きにお食べ」

「私は疲れたから寝ます」

「お好きになさい」

小さな頃は冷たい印象もあった。

しかし、小学校高学年ぐらいになった私は、祖母を訪問してそのスタイルを見るのが楽しみになっていた。仕事を退職してからは、「今までもやりたかったのよ」と庭にたくさんの花を植え、茶室を作ってお茶を楽しみ、ピアノを購入して習い、源氏物語を読み直し、日本舞踊を習い、能を楽しみ、詩吟を歌っていた。花が好きで水彩画を描いていて、80歳で墨絵を始めた。畑も自分の食べる分だけ育てて畑を見に行ったり庭の草刈りをしながら「この庭の石は家をつくる時におじいちゃんが山から運んできたのよ」と教えてくれる。教え子の名前がたくさん出てきて、よく慕って会いに来てくれているのがわかった。

いつもいつもやりたいことが次々に出てきて、「これ、やりたかったの!」と声を弾ませている。全く孫に合わせることはなく、自分でチャンチャンとやりたい事に挑戦して楽しいことは続け、しんどいことはやめていた。楽しそうに「これ面白いのよ」と言うので、ついつい子どもの私も「楽しそう!」と見とれてしまっていた。

介護に来てくれていた人や父や母や私にいろいろなお願いをするのだが、そのお願いが実に明確でわかりやすい。「今日は掃除でなくて布団を干してほしいの」「この部屋の押し入れの真ん中の奥に○○があるから持ってきてちょうだい」と、自分の気持ちを隅々まで把握していて、同じく家の物も隅々まで把握していて、こちらが迷いなく目的にたどり着けてミッションを遂行できた。

施設に入った時も、「まぁ栄養満点のご飯が自動的に出てくるなんて、快適だわ」「机があるから勉強はできるわね」と、いろんな変化を前向きに受け入れる。きっとたくさんの不自由も気に入らないこともあったに違いない。しかし、一旦すべてを受け入れ、良いところを見つけて口に出していた。

先日入院した時には、非常に弱っているのに「おやつにはぶどうが1粒欲しい」という明確な意思を持っていて、見舞いに行った私たち3人と祖母が1粒ずつ、4粒のブドウをじっくり楽しんだ。

ひとつひとつの満足度が非常に高い。それは、その時々に自分の気持ちが満たされるに充分なこと(もの)は何か、というのがその量まで明確であるため、ハズレが少ないからなんだなと改めて感じる。ギャンブル的なサプライズでなく、私は今これがあれば満たされるからそれをくれるならちょうだいませ。それ以外ならいりません、という意思表示をしている。嫌われるかも、なんて事はみじんも考えていないと思う。そして、それを知った私たちも、あまり嫌な気持ちにはならず、むしろその意思に対応できた時の満足度は高くて、双方ハッピーだ。

もちろん、ド田舎の農村で教師をしているから、周囲からの妬みや嫌がらせはあった。

「ケンカを売られても、下りて行ってはダメよ」

ものすごく記憶に残っている言葉だ。記憶にはあったが、やっと理解できたかもしれない。感情が動いた時、まずは物事を俯瞰しなさい、そして相手を分析して、起こった事柄と自分の感情を分解しなさい。そして、改めるべき行動があったら改めればよい。そういうことを教えてくれていたように思う。

※決して村中の人と仲が悪いわけではない。あくまでも、時に。

祖母はもう何十年も日記を書いている。そして、今でも書いている。天気を書き、体調を書き、感情を書き出し、振り返り、思考を書き出し、振り返っている。日記帳がない時は、カレンダーや紙の端くれに書いていることもある。そうやって、外の世界に出る前に、いつも自分と対話して心と頭を整えてから外に出ていたから、比べても仕方のない比較や浪費しても仕方のないエネルギーは一切使わない、という姿勢で過ごせたのかもしれない。

「こうしなければ」が適度に抜けている祖母。卵とブロッコリーを一緒にゆでても長生きできる、遊びも食事も孫に気を使ったり合わせなくても孫には好かれている、何巻もある源氏物語を虫眼鏡で読むのに夢中で他の人からの呼びかけが聞こえなくても死にはしない。きっといろいろと世の中で「常識」と呼ばれている様々なことを捨てて、キャリアを築き、自分の感情や考えを大切にしてきたのだろう。仕事を退職しても毎日やりたいことが明確で、迷いなく毎日を過ごしていたのだろう。

100歳の誕生日は新型コロナウイルスの影響で会いに行くことはできなかったが、父が代表してそれぞれが描いたバースデーカードをガラス越しに送った。

100歳のお誕生日、おめでとうございます。いつまでもいつまでも元気でね。

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